穏やかな日常を破る影はいつも密やかに忍び寄る。 『さて、どうしようか――』 くすくすと、笑いを含んだ声が言う。 『いずれ礼はせねばならないが…今は…』 低い声が答えた。 『じゃあ、丁度いいよ。…ご挨拶、ってね』 『ああ、そうだな』 黒い羽が、ひらりと一枚舞った。 |
自由都市地帯ののどかな田園地方を治める小国ルーキウスは、成り立ちこそ堕ちたる神の使いを封じた 伝説の幻獣使いを初代国王として始まった国だが、少なくとも今のこの平和な時世においてはそれはただの昔話に過ぎない。 六百年前の建国の祖の冒険譚は、今や冒険者に憧れる子供への寝物語としてその役割を果たしていた。 そうして、初代国王、ルーシャス・ルーキウスの物語に慣れ親しんだ子供たちのうちの幾らかは、 将来は王国騎士団に入って活躍するのだと目を輝かせる。 とは言っても、のどかで平和なこの国では、騎士団員による主な仕事の一つが道案内だったりするわけだから、 冒険譚とはほど遠いかもしれない。 そんな王国での年間の最大行事、即ち収穫祭が無事に終わりを告げたこの日―― 祭りの最中には負けるが、収穫祭の成功を祝い、町内のいたるところで後夜祭とでも言えるものが開かれていた。 それは城にあっても同様で、この夜はささやかな晩餐会が催されていた。 「皆のおかげで今年の収穫祭も大成功じゃった。今日はその労をねぎらうための場を設けたので、 皆、羽を休めて、また明日から仕事に励むようにのう〜」 にこにこと笑顔を臣下らに向けると、現国王リプトンは自らも席に着いた。 それに倣い臨席者は各自席に着き、温かい食事に舌鼓を打ち、あるいは歓談に興じる。 王室主催の晩餐会に招かれるのは、収穫祭で特に尽力を認められた者たちと、城でも要職にある者達だ。 例えば、王国騎士団の近衛隊副隊長であるとか。 「セレスト、セレスト―――」 内緒話をするかのような小さい呼び声を敏感に察知し、セレストは少し離れた場所に設置された 王家の人間が集うテーブルへと近づいた。 のんびりとした国風の上、王自体があまり権力を振りかざすタイプではないのだが、 それでもさすがに民と混じって食事を取ることは慣例で許されていない。 「いかがなさいました?カナン様」 仕える主の側に控え何事かと問うと、ふふふと楽しげな笑みがこちらを見上げてきた。 「な、何ですか、その不穏な笑いは――」 「不穏とは何だ。失礼な奴だな。……いや、皆楽しそうだなと思ってな」 「それはそうでしょう。収穫祭も無事終わりましたし、王室の晩餐会に呼ばれるなど、 城勤めの者でもそうそうあることではないですから」 「そうか。…うむ。そうだな」 「ええ、それに、王家の方々とこのような近くでお会いする機会は多分一生のうち数えるほど…いえ、 一度もないかもしれませんから。特に政務を取り仕切られている陛下やリグナム様と違って、 カナン様やリナリア様は民の前にお姿を見せること自体、稀ですし」 「…そう言われると、何だか自分が珍獣にでもなったようで複雑だ…」 むーと唇を尖らせるカナンを、セレストは微笑ましく見守った。 たわわに実る稲穂にも似た明るい金色の髪に、澄んだ湖のような深い青色の瞳。 非常に目立つ容姿をしている彼の主君は、外見だけでなく中身もいろいろと派手だ。 決して性格が派手好きということではない。 その点で言えば、無駄な華美を好まず、どちらかというと堅実の部類に入る。 …ただほんの少し、無茶なところやご無体なところがあるのが否めないだけで。 年齢としては自分より何歳も若いが、聡明、多才で、自分の意志をしっかりと持ち、 万人に与える優しさも兼ね備えた主君をセレストは敬愛していた。 実際には敬愛を抱く主従の関係だけでもないわけだが、それを差し引いてもセレストはカナンに甘い。 元より兄気質なのも手伝ってか、幼い頃から側で見てきたカナンが可愛くて仕方がない。 ご立派だと思う反面、ときに可愛いなどという、主君に対しては不敬にあたりそうな言葉が 心の中で漏れてしまうのはセレストにとっては既に不可抗力の域だ。 このときも、口にはしないもののお可愛らしいという思う感情が表情にうつってしまったのだろう、 セレストの笑みを訝しげに見ていたカナンが溜息をついた。 「なんだなんだ、その顔は。この晩餐を楽しんでくれている誰よりも楽しそうな顔をしているぞ」 「そ、そうですか?」 「何をそんなにでれでれした顔をしている。まさか晩餐会出席者の中に可愛い娘さんでも見つけて 喜んでいたわけではないだろうな」 「え、ええっ!?とんでもないですよ!濡れ衣です!」 「…では、まさか、母上や姉上に…」 「そんな滅相もない!私はただカナン様が…………あ…」 「う…」 「…」 「…」 何となく二人して赤くなって俯く。 他に多数の人間が居合わせるこの場で、何だかお見合い状態になっていることに気付き、 セレストは慌てて顔をあげて手を振った。それから周囲に考慮して小声で話しかける。 「って、いえ!別にそんな不埒な想像をしてたわけじゃありませんよ!?ただカナン様がお可愛らしいなあと…痛っ!」 「可愛い言うな!」 セレストの頭に軽いチョップをお見舞いしたカナンが、目元に朱を残しながら唸った。 「す、すみません」 何だか理不尽だと思いつつ、実際カナンが可愛いと言われるのを好まないことを知っている自分にしては 確かに失言だったと素直に謝る。 「まあ、いい。こういう席でつまらない口論をするのも無粋だしな。 セレスト、お前もご苦労だったな。存分に羽を伸ばしてくれ」 「は。ありがとうございます」 にこりと笑みを向けたカナンに、セレストは同じく微笑を浮かべながら感謝と忠誠を込めて礼をした。 カナンの側から離れたセレストは何気なく頭を巡らせた。 のどかな国民性を表すかのように、臨席者の表情はいずれも柔和で友好的だ。 農業国らしく、料理には新鮮な野菜がふんだんに使用され、温かな湯気を立てるスープが晩餐を囲む人々の笑顔を ふんわりと包み込んでいた。 見渡した場の雰囲気はとても好ましいもので、それはさらにセレストの足取りを軽くさせる。 その足取りのまま、さて同僚らの元に戻ろうとセレストが一歩を踏み出した。 和やかな晩餐会を乱す不吉な影が密やかに落ちたのはそのときだった。 室内外で警備にあたっていた騎士団員の一人が、中空からふいに現れた物体に気付いた。 「羽…?」 闇夜にひらりと舞う黒い羽。 不審に思って手を伸ばす。 羽は静かに男の手に舞い降り、 「――え?」 吸い込まれるように、その中に消えた。 「どうした?」 異変を感じ取り近づいてきた同僚の目の前で、男は奇怪な叫び声を上げた。 「お、おい!?…ひっ!!」 次の瞬間、男は突如全身から血を流して床に倒れこんだ。呻き声をあげながら転げまわる男に手を伸ばそうとしたとき、 また一枚――― ひらりと現れた羽が、仲間に手を差し伸べようとしていた男の肩口にふわりと吸い込まれた。 「―――――――――――!!」 「悲鳴!?」 「何事じゃ」 夜を切り裂く叫び声に、テーブルを囲んでいた者たちが一斉にざわめき始めた。 リプトン王、リグナム王子は厳しい顔で立ち上がり、おっとりした性質のリナリア姫は不安そうに手を組みながら そんな父王と兄王子の顔を見つめた。 その傍らで、カナンは無言で椅子を引いた。その瞳はやはり険しい。 主君の表情を正確に読み取ったセレストは、主がいつ飛び出しても守ることができるように、自らも態勢を整えた。 張り詰めた緊張の糸を断ち切る勢いで、豪奢な扉が大きな音を立てて開かれた。 立っていたのは警備についていた騎士団員の一人だ。 「も、申し上げます!」 そういいながら転がるようにして部屋に入ってきた男の顔色は真っ青だ。 礼儀と規律を重んじるはずの騎士団員らしからぬ振る舞いにも口を挟む余地がないほどの取り乱し方だった。 立ち上がったアルネストが足早に近づき「どうした」と固い声で問うと、信頼する近衛隊隊長の姿を認めた男の顔に 僅かに安堵が戻る。 「た、隊長…!大変です!突然、黒い羽が現れて…それに触れた者が血を流しながら倒れて…」 「黒い羽?」 「!!」 カナンとセレストは覚えのある符牒に目を見開き、それからお互い顔を見合わせた。 「黒い羽、だと?」 「カナン様、まさか―――」 言いかけたセレストは、ハッと息を呑んで天井を振り仰いだ。 「な―――」 雪のように天から降るのではない。 何もないところに突然に、まるでどこからか転移してきたかのように、 黒い羽が続けざまに現れ、ゆっくりと下に舞い降りてきた。 「ひぃっ!!」 それのもたらす惨状を目の当たりにしていた男は恐怖で引き攣れた叫び声を上げた。 アルネストは主君であるリグナムらに「御前で失礼いたします」と言うや、懐に忍ばせたナイフを羽に向かって投げつけた。 空を切って飛んだ刃は、確かに羽を捕らえたに見えた、が。 「通り抜けただと!?」 白刃は羽を通り抜けた。 羽は、何事もなかったかのようにゆらりと舞い続ける。 「実体ではないのか…!?」 「くそ、何だこんなもの――!」 「待て!不用意に触…」 制止を聞かず、羽を手で握りつぶそうとした室内の警備担当者の一人が、目的を為した瞬間体を硬直させた。 「あ…が…っ」 磨きぬかれた大理石の床に、血飛沫が飛び散った。 「きゃああぁ!!」 不吉な黒い影の効力を知った者たちは騒然となった。 「助けて――!!」 「ひ、ひぃぃ!来るなぁぁ!!」 実体のない羽は物で防ぐこともできない。消えるのは、誰かの体に吸い込まれたときだけ。 室内には、今や逃げ場のないほど多数の羽が出現していた。 誰かが助かるためには誰かを犠牲にするしかない。 ひたすら逃げ惑う者。近くにいた者を盾にしようとする者。 和やかな晩餐会の場は、一斉に阿鼻叫喚が渦巻く地獄絵図へと変化した。 黒羽の脅威もだが、とにかく恐慌状態の人々の心を静めなければならない。 その責を負う世継ぎの皇太子は、前へ出ようとして、忠実なる護衛の必死の形相に引き止められる。 「いけませんリグナム様!危険です!お下がりください」 「く――!しかし、これは一体…いや、今はそれより、どうすれば――!!」 解決策など浮かばない。それどころか何が起こっているか分析する時間すらない。 動揺と混乱が極まる中、凛とした声が響いた。 「皆、伏せていろ!」 先程までリグナムとともにいた筈のカナンは、今は広間の中心部に一人立っていた。 逃げることも怯えることもなく空に漂う影を見据えたカナンは、両手を組み合わせるようにして突き出した。 「カナン…!?何を―――」 危ないと一様に飛び出そうとしたリグナムを始めとする王家の人間や警備兵の声は、続くカナンの声にかき消された。 「白色破壊光線――!」 目も眩むほどの白い光が部屋を満たした。 光。光。光。そして静寂。 その静寂を追い落とすように、どろりとした黒い気配が薄もやのように広がったことに、一体何人の人間が気付いたか。 『忌々しい幻獣使いの血を引く者よ――』 ふいに冷たい声が響いた。 頭を抱えて蹲っていた人々は顔を上げて声の主を探したが、どこから聞こえてくるのか見当もつかない。 まるで脳内に直接響いてくるかのような不気味さで声はさらに囁いた。 今度は先程より高めの、それでもどこか冷たい印象を受ける声だ。 『どう?この挨拶は気に入ってもらえた?』 明らかに嘲りを含む声に、カナンは体の横で拳を握りしめ、宙を睨んだ。 『そう、これはただの挨拶代わり――近いうちに、我々は完全なる姿で復活を果たす。そのときには――』 『――まっさきに借りを返しにくるから、覚悟しておくんだね』 交互に囁きかける低音と高音は、どちらも神経を直接まさぐるようなざらりとした感触を伝えてくる。 まるで声の毒に当てられたかのように、居合わせた者たちの殆どは床にうつ伏せに蹲り、さらに幾人かは意識を手離した。 頑強な精神を持つリグナムですら片膝をつき、苦しそうに頬を歪めた。 カナンが魔法で羽を吹き飛ばしている間に、セレストは注意だけは依然としてカナンの方に向けながらも、 パニック状態の人々の誘導と怪我人の保護を行っていた。 この惨状を早く何とかしないと、と気ばかり急きそうになる自分を叱咤しながら。 精神的に揺さぶりをかけて動揺を誘うのは彼らの常套手段だ。 下手に動いて墓穴を掘るわけにはいかない。 最終的には、多分この場で二本の足で立っていられるのはカナンとセレスト以外にはいないだろうから。 なぜならば、彼ら――神話の世界の神にも等しい伝説の存在である彼らと相見えた経験を持つものが 他にいるはずがない。 幸か不幸か、そのような存在との邂逅…それだけでなく幾度かの対峙を果たした経験が、 この程度の精神攻撃であれば耐えられるような免疫となっていた。 とは言え、それですら気を抜くと一気に侵食されかねない凶悪さだ。 このままではまずいとセレストが思った瞬間、邪悪な声は気紛れに笑った。 『それじゃあ…今日はとりあえずこの程度にしといてやるよ。それまではせいぜい人生を楽しんでおくといいよ。 短い人生を、ね――』 くすくすという耳障りな笑い声を遺し、暗い気配は忽然と消え去った。 いつでも消せるのだと。それでも今はまだ生かしてやるのだという傲慢な意思がそこには明らかにあった。 彼らが、人を弄ぶような行為を戯れ程度に行うのだと既に理解はしていたが。 「カナン様…」 挑むように天を見つめる主君を、セレストはそっと呼んだ。 暫く、返答はなかった。 「カナン様…」 「うむ…」 もう一度呼ぶと、カナンは軽く頷き、それからその視線は室内を一巡した。 倒れ伏す多くの人々に、青い瞳が苦しげに細められる。 彼の瞳が常に内包している強い光が、一瞬だけたわんだ。 「…こんな…ひどいことを…」 そう呟いて、暫くぎゅっと目を閉じ俯いていたが、やがて顔を上げるとセレストを振り返った。 振り返った青い瞳を、セレストは息を呑む思いで見つめた。 瞳に宿るのは強い意志と光。 この状況にあっても、迷いや惑い、恐怖を映すことなく、ただ前を見据える瞳。 「セレスト!」 「はっ」 セレストは臣下の礼を取り、発される命令に従うべくその背後に控えた。 けれど発されたのはセレストが予想したような命令ではなかった。 ほんの少し、逡巡するような気配の後、カナンは静かに告げた。 「もし…もし僕がこれからかける魔法が失敗したら、お前はすぐに兄上に指示を仰ぎながら、 闇属性の魔法と古代の呪詛に詳しい者を集めて解毒の研究を進めてくれ」 「は…それは…いえ、失礼ながら、解毒であれば回復魔法や薬草の専門家を集めた方がよいのではないでしょうか。 あるいは相殺を狙って光属性の…」 「だから、僕がこれから試すことが失敗したら、だと言っている。彼らのこの手の攻撃なら、 恐らく通常の回復や薬草は効果がない。それに、もしこれが効かなければ…多分、どんな回復も薬草も、 光属性の魔法による相殺も通じない」 言いながらカナンは両手を合わせ、深呼吸をした。 呼吸一息ごとに精神が研ぎ澄まされ、手の内に力が集中していくのがわかり、 セレストはそれ以上の問答を控え、じっとカナンを見守った。 やがて、薄く目を開いたカナンは小さく呪文を唱えた。 「ヒーリング∞…!」 途端、限りなく白に近い若草色の光の粒子が急激にカナンの手の中に集まり、それから風のように拡散して辺りに散った。 室内に充満した小さな光の粒は、キラキラと輝きながら、倒れた人々の体に優しく降り注いだ。 「これは…」 セレストは目を瞠った。 掌で受け止めた光はほんのりと温かい。 カナンはヒーリングと言った。確かに、見慣れた色の光の粒子は、 嘗て冒険の最中にカナンが使用していたヒーリングと何ら変わりない。 ただその発動法と規模だけはいつもと大幅に違っていた。 この魔法は何かとセレストがカナンに問いかけようとしたとき、早速その効果が現れた。 「…う〜〜〜ん?」 「あれ?俺、どうしてたんだっけ?」 血を吐いて倒れたはずの者たちが夢から覚めたような顔つきでむくりと起き上がる。 次々と起き上がってくる者たちの姿を確認して、カナンはうっすらと微笑を浮かべた。 「良、かっ……た」 最後の方は囁くように言って、カナンはふぅっと目を閉じ、がくりとその場に崩れ落ちた。 「カナン様!?」 慌てて抱きとめたセレストの腕の中、その顔はいつもに増して白く見え、抱く手に自然と力が篭った。 「カナン様…!」 「カナン!」 人々の間を縫って走りよってきたリグナムは、セレストの腕の中で意識を失ったカナンの顔を覗き込んだ。 「カナン!!大丈夫か!しっかりしろ!!カナ…」 「…気力を使い果たされたようです。暫くお休みになれば、恐らくは大丈夫かと」 答えるセレストの声は低く硬い。それに気付き視線を移動させたリグナムは、 噛み切れそうなほどに強く唇を噛み締めた従者の姿を見た。 「セレスト…」 「…申し訳ありません。誰よりカナン様のおそばについていながら、私は…」 謝罪しながらも、セレストの視線はカナンに固定されたまま動かない。真摯な碧の瞳はカナンだけを見つめていた。 懺悔するように。何かを注ぎ込むように。求めるように。守るように。 その様に、リグナムはふと我に帰った。 兄としてではなく、世継ぎの王子としての顔で、改めて意識のないカナンとそしてセレストに向き直った。 「…いや、あれは誰にもどうにもできなかった。それにカナンが動かなければ多くの者が犠牲になったに違いない。 それよりも――カナンの意識がない今、お前にいろいろ聞かねばならない。よいか?」 「は。――あ、いえ、できればカナン様を寝室にお連れしてから…」 「もちろんだとも。頼めるか?」 「はい」 ◆ ◆ ◆ カナンが目覚めたのは悪夢から三日経ち、そろそろ城中が落ち着きを取り戻しかけた頃だった。 瞼がぴくりと痙攣し金の睫毛が震えるように動いた後、その奥から現れた青をセレストは喜びのままに覗き込んだ。 「カナン様――!!」 「……僕、は…」 ぼんやりとセレストを映していた瞳が、ハッと見開かれる。 それから一気に飛び起きた瞬間、眩暈に襲われたのか額に手を当てて小さく唸った。 「か、カナン様!いけません、暫く安静にしていないと…何しろもう三日も意識を失っておられたのですから…」 「三日……そうか、あれからもう三日経っているのか…」 「…はい」 「皆は大丈夫か?情けないことにあれで全ての力を使い切ってしまったからな…ろくに皆の様子も見ることができなかった」 自分の力のなさが歯がゆいと続けたカナンにセレストは慌てて口を挟んだ。 「何を仰るんですか…!カナン様のおかげで皆助かったというのに…それに、力不足というなら寧ろ私の方です。 おそばにいたにも関わらず、私は何もできずに見ていただけで…」 「違うぞ、セレスト。僕はお前がいたからあの魔法を試せたんだぞ」 「え…」 「正直、効果のほどは定かではなかった。何しろ試したことがないんだからな。 可能性があったから試す価値はあると思ったが…それでも今の僕の力であれを使ったら 恐らく暫く寝込むことになるだろうとは予測していた」 「な…っ!そんな危険な魔法を…」 「いや、大丈夫だ。極度に精神力を使うから回復に時間がかかるだけで、体には何の支障もない。 だがあの場所で事情を多少なりとも知る者がいなくなるわけにはいかなかった。 もしお前がいなければ、例え時間はかかっても、もっと確実な手段を僕は講じなければならず、あれを試せなかった。 そうなっていれば治療法が見つかる前に命を落とす者もいたかもしれない。 だけどお前がいるから後は全て任せても大丈夫だと――だから僕はあれを使った。 そして幸い皆助かった。…お前には感謝している」 「…勿体無いお言葉、恐縮です」 何もできなかった自分に感謝される謂れなどないのにという暗い気持ちを出してはカナンにかえって気を遣わせてしまう。 セレストは自己嫌悪を心の奥に押し込めつつカナンの感謝の言葉を受け取った。 「ところでカナン様、そういえばあの魔法は一体…通常のヒーリングとは違うように見えましたが――」 「ああ。あれはヒーリングに光魔法を組み合わせたものだ。…僕の、オリジナルスペルだな」 「オリジナル――!?」 前の冒険から日は開いているものの…いや、だからこそと言えるだろうか。 騎士団員として訓練を行っているセレストとは違って、城内で王子として生活しているカナンは 魔法の類からも遠ざかっているはずだった。 それが、前と比べて何ら衰えることのない威力の上級光魔法を行使してみせただけでなく、 独自の魔法を編み出していたなどと。 いつの間にこの方は―― 絶句したセレストから視線を逸らせ、床の一点を見つめながらぽつりぽつりと吐き出す。 「レイブンの即死呪文…あれを、ヒライナガオで見たときから…いつか必要になるかもしれないと思って、 研究していたんだ」 「ヒライナガオで……ジョーンズさんにかけられた、あの即死呪文…ですか」 思い出したように呟いた瞬間、カナンの白い頬がぴくりと震え、だからセレストは気付いた。 「…あれは…誰にも、どうしようもなかったと思います。エルダーさんのおかげでジョーンズさんは助かりましたし… カナン様が、その…いつまでも気に病まれることはないかと」 「だが!」 カナンはキッと瞳を上げてセレストを見つめた。 潤んだ青い瞳が、激情で爛々と燃えている。 「あのときはたまたまエルダーがいて、ヘルムトもナタブームも治してくれたから誰も死なずに済んだ! だが、そんな偶然を毎回期待できると思うか…!?結局彼らはまだ生きて、今も復活の時を狙っている… 次の偶然は…ないかもしれないんだぞ」 「それは…」 「きっと、彼らは再びどこかに姿を現す。そうすれば…」 強い視線と声のトーンがふっと落ちた。 「…………もう、嫌なんだ…あんな風に、一瞬で人の命が奪われるのをただ手をこまねいて見ているのは…絶対に嫌なんだ」 広げた両手を見つめながら、カナンは囁くように心を吐き出す。 セレストは、それを黙って見守るしかなかった。 「だから…だから、そうならない為に僕にできることがあるなら何でもやっておきたい」 静かな声音は、揺らがない決意をセレストに伝えていた。 セレストは苦しそうに呻いた。 「カナン様…あなたは……」 きっと、既にカナンは決心しているのだろう。 それを変えることはできないということをセレストは理解していた。 それならば。 そらなら、自分の取るべき道は…望む道は―――― 「…どうか、私もお連れください」 「…!セレスト…!?」 唐突な従者の言葉に、カナンは大きく目を見開いた。 青い瞳の中心には、傅きながらこちらを見据えてくる真摯な瞳の青年が映っている。 「…発たれるおつもり…なのでしょう?そしてその決意は私には変えられない。ならば、どうぞ私もお連れください」 カナンは暫しセレストを凝視していたが、やがて溜息をついて、セレストの隣にしゃがみ込んだ。 「…どうしてわかった?」 「伊達に長年カナン様のお付きはやっておりません」 「…そうか」 「はい」 「城を出たらいつこの国に戻って来られるかもわからないんだぞ。 いや、戻れるかどうかもわからない。シェリルやアーヴィングや母君や同僚とも…」 「カナン様」 セレストは首を横に振ってカナンの言葉を遮った。 まっすぐに、視線をカナンへと向ける。 「それでも、です。それでも、あなたとの別れだけは…オレはそれだけは許容できません」 普段であればカナンの前では使わないはずの一人称できっぱりと言い切ったセレストを、カナンはじっと見詰め、 やがて小さく「すまない」と呟いた。 項垂れた金髪を、セレストは…本当に彼にしては珍しいことに、躊躇いなく腕の中に引き寄せた。 「違います。そうじゃない。だから…謝らないでください」 「…お前を巻き込んでしまってもか?」 国を捨て、親兄弟と離れることが寂しくないといえば嘘になる。 けれど、たった一人と定めた相手と離れるなど論外。 彼を一人で行かせてしまえば、残るのは後悔に塗れた抜け殻だけだ。 だから、何があっても側にいる。 「それが私の望みですから。駄目だと言われても強引にでも着いていきます」 従者の出した結論に、長い沈黙の後、主君が返した返答は「ありがとう」という一言だった。 END. 2006.03.14/九堂紫 |