初恋










「やれやれ、やっと完売だぜ」
きり丸は空箱をどんと積み重ねて、うっすら汗ばんだ額を拭った。
いつもなら日の高いうちに売り切れるのだが、今日は夕暮れ時までかかってしまった。
見回すとめっきり人通りもなくなっている。ほんの一刻前までは多くの人が行き交っていたこの通りも、 今は薄く伸びた自分の影がいるだけだ。

「今日は天気がいまひとつだったからなー」
ぼやきつつ、帰ろうと家の方向へ足を向けたとき、 道の向こうから――きり丸にしてみれば本当に唐突に――彼が姿を現した。

「利吉さん!」
思わず顔をほころばせて名を呼ぶ。
親しい人と出会えば嬉しいのは当然。
特に久々に顔を見る相手ならば。
加えて、向ける気持ちが友人に向ける親愛の情を超えるものであれば尚更だった。
一方、彼もすぐにこちらに気付いたようで、切れ長の目がきり丸を確かに捕らえた。
いつものごとく女装していたのだが、どうやら気付いてもらえたようだ。
もっとも彼もきり丸の女装を何度も目にしているので気付かない方がおかしいぐらいなのだが。
そうは言ってもやはり彼の目が自分を映していることに違いはなく、嬉しくなって駆け寄ると、すかさず腕を取られた。
「こっちだ!」
「え?」
聞き返す間もなく、傍らの路地の中に引き込まれる。
引かれた拍子に腕の中から饅頭を入れていた箱が落ち、ガランと音を立てて転がった。

「え、あの、利吉さん?」
「しっ!」
鋭い眼光に遮られて、きり丸は慌てて口をつぐんだ。
すると、通りの向こうから大勢の足音が聞こえてきた。
「どこ行きやがった!」「絶対に見つけ出せ!」などと叫んでいるようだ。
ちらりと見上げた利吉の視線は、その声の方角を油断なく見据えている。
どうやら追われているのは利吉らしいときり丸は判断する。
売れっ子のフリー忍者である彼に追っ手がかかることはそう珍しいことではない。
恐らくまた危険な忍務中なのだろう。

だが、男たちのあの様子では路地の一つ一つまで確かめていきそうだ。
このままやり過ごせるのかと、きり丸は再びそろそろと利吉を見上げた。
「利吉さん…」
きり丸を片腕で閉じ込めたまま、利吉はじっと追っ手の様子をうかがっていたようだったが、 やがて「思ったより数が多いな」と、彼にしては珍しく小さな舌打ちをした。
それから、伏せた目をきり丸に流した。
「…きり丸、すまないが協力してくれないか」
「そ、それはもちろん!いい、ですけど…何すればいいんすか!?」
この状況で何か役に立てるだろうかと思うと語尾もすぼまってしまう。そんなきり丸に、利吉は表情を和らげた。
「何もしなくていいよ。ただ奴らが通りすぎるまで、少し私に合わせていてくれ」
「合わせる…?」
訝しげに眉を顰めたきり丸だったが、男たちの足音がすぐ近くに迫ったことに気付き、はっとそちらを見る。
ほぼ同時に、額に温かいものが触れた。

「っ!?」
慌てて視線を戻すと、間近にあった利吉の目が「黙って」というように軽く細められ、次いで頬に口付けを落とされた。
さらに瞼に唇を押し当てられ、反射的に目を瞑る。
そこできり丸は利吉の意図に気付いた。
丁度今女装をしているきり丸は、傍から見れば町娘にしか見えないだろう。
その町娘と恋人の振りをして敵の目を欺こうとしているに違いない。
だ、だからって!ときり丸は内心悲鳴をあげた。
利吉の指と唇は休む間もなくきり丸に触れてくる。まるで愛しい想い人に触れるような余裕のなさで。

利吉に触れられるのは嫌ではない。
芝居だと思うと複雑だが、これで利吉が助かるならいくらでも手伝おうと思う。
けれど、利吉の芝居は真に迫りすぎていて、まるで本当に恋人になったような、 そしてその恋人である彼に愛されているような気になってしまう。

「ちょ…」
きり丸は熱くなってきた頬が利吉に気付かれないことを祈りつつ、ぎゅっと目をつぶって身体を固くした。
「そんなに噛み締めたら唇が切れるぞ」
ふとかけられた言葉に意識を向けて、丁度力がぬけたときだった。
耳元で囁いたばかりの唇が、悪戯に耳たぶをくわえ、さらに首筋へと降りた。
「ぁ…っ」
不意打ちに、予想もしない声が出た。
きり丸は隠しようもないほど頬に熱が集まるのを感じた。
男たちの足音はすぐそこに迫っている。
次の瞬間にもこの路地をのぞくに違いない。
けれどこれ以上は限界だ。
きり丸が身を捩って利吉の腕から抜け出そうとするのと、その腕に力がこめられるのがほぼ同時だった。
肩口からまわって背中を支えていた腕がさらに回り込み、完全にきり丸を腕の中に閉じ込めた。
「利吉さ…!」
もう無理だと言おうと上げた顔を、いつの間にか後頭部にまわされたもう片方の腕がしっかりと押さえつけていた。
のみならず、開けかけた口を容赦なく塞がれる。
驚きの声や抗議の声は、角度を変えて何度も重ねられる唇に全て吸い取られてしまった。
頭が白く霞んでいく。
すぐ近くまで近付いてきた気配がこちらを見て声を投げかけてきたことなど、既にきり丸の意識には入らなかった。

「おい!こっちに若い男が来な……ちっ!お楽しみ中かよ。良いご身分だぜ」
「こっちにはいねぇようだな。どこ行きやがった!」
「もっと先に行ったのかもしれねえ、あっちを探すぞ!」
男たちが毒づきながら去っていくのを、きり丸は頭の片隅でぼんやりととらえていた。



暫くして漸く利吉の腕がきり丸から離されたが、途端に足元から崩れそうになって、目の前の利吉の着物に縋りつく。
ぐったりと凭れかかって大きく呼吸すると、頭上から慌てたような声が降ってきた。
「大丈夫か!?」
「ま…まぁ、なんとか…」
「…すまない」

きり丸は急いで顔を上げた。
「いや、協力するって言ったのはおれだし、別に利吉さんに謝ってもらうことじゃ…」
「だが、ここまで…つき合わせるつもりはなかったんだ」
利吉の言う「ここまで」が何を指すのか悟って、きり丸の頬が赤くなる。
けれど、実際自分が嫌ではなかったのだから利吉が気に病むことはない。

「おれがいいって言ってるんですよ」
にっこりと笑いかけると、利吉が息を呑んだ。
既に日が落ちかけて辺りが薄暗いためよくわからないが、顔色が変わったようにも見えた。
「あの…?」
どうしたのかと問いかけようとした矢先、
「…すまない」
再び頭を下げられた。かと思うと、利吉はきり丸を残し現れたときと同様、素早くその場から消え去ってしまった。
その場に呆然と立ち尽くしたきり丸だったが、やがて掠れた声で「なんで…」と呟いた。

利吉の思惑などわからない。
けれど思い当たるとしたらひとつだけ。
先ほど利吉を見上げて、問題ないと言った。
あんなことをされても利吉になら嫌ではないと。そういったことになる。
本当に嫌ではなかったから、好意を隠さない瞳で。
そこから利吉の様子がおかしかったように思う。
だったら、まるでいたたまれないとでもいうようにきり丸から去ってしまった理由なんて一つしかないように思えた。

「そんなに、迷惑だ、ってこと…?」
多分、あのときに利吉に伝わってしまったのだ。
きり丸が、友人や尊敬する先輩に向ける気持ち以上の好意を利吉に抱いているということを。
「確かに、ふつーあんなこと男にされたら嫌だもんな」
同性に抱き締められ接吻までされて、普通に考えれば嬉しいわけなどない。
利吉だって忍務上仕方なくといったところの苦肉の策だったのだろう。
それを、気遣いからではなく心底から嫌ではなかったと相手に言われたらどう思うだろう。
自分に置き換えて考えてみると簡単に結論が出た。
「…やっぱ、気持ちわるい、よな」
はは、と漏れた笑いは乾いたものだった。

















2008.08.22








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