愛別離苦 (二)










年度が終わり、明日からは次年度前の長期休暇に入るという日。
次年度の授業計画やら何やらの書き物をしている伝蔵の隣で、同じく書き物に没頭していた半助は、 失礼しますという声に顔を上げた。
「先生」
忍術学園の制服を脱いだきり丸が、やや緊張の面持ちで立っていた。
「どうした?きり丸。わたしはまだ片付けが残っているから、先に家に帰っててい…」
首を横に振って、きり丸は半助の言葉を遮った。
「ぼくは今日で忍術学園をやめようと思います」

半助の筆から墨がぽたりと落ちた。
言葉が出てこない半助の代わりに、伝蔵が厳しい目をきり丸に向けた。
「やめてどうする?」
「当面はアルバイトをしながらですが、…商人になろうかと思います」
「確かにお前には商才がありそうだ。だが、今更かもしれんが、一人で食っていくのは簡単ではないだろう」
「…しんべヱの実家みたいに大きくはないっすけど、バイトで知り合った商家の旦那さんから、 住み込みで働かないかというお話をもらってます。それを受けようと思っています」
「…もう一度聞く。本気か?きり丸」
決意を確かめる意図をもった伝蔵の眼差しは、さすが元戦忍と思われるほどに鋭いものだったが、 きり丸はこの視線をまっすぐに見返した。
「…はい」
暫くきり丸の目をじっと見た伝蔵は、それから瞳の光を和らげた。
小さく「そうか」と呟くと、ゆっくりと立ち上がる。
「決意は固いようだな。…わかった。残念だが仕方ない。学園長に話をしてこよう」
「ちょ…っ!待ってください山田先生!きり丸、お前も何を言っているんだ!」
それまで呆然と二人のやり取りを見ていた半助は、我に帰って腰を浮かせた。
きり丸の腕を掴み、厳しい口調で問い詰める。
「いくらなんでも唐突すぎるだろう!事前に相談ぐらい…!」
きり丸は臆するでも戸惑うでもなく、ただじっと半助を見下ろした。
そうして口を開いて出た言葉は、半助が予想しないものだった。

「先生ごめんなさい。今までずっと甘えてばかりで」
「なに…?」
訝しげに問い返すが、きり丸はそのまま言葉を繋げた。
「何しても先生なら許してくれるって…そうやって甘やかしてくれるのが嬉しかった」
吐息を吐くように言われた台詞に、半助は息を止めた。
「…でも、先生のそばにいたらどうしても甘えてしまうから、だからぼくは出ていこうと思います」
「きり丸…」
「今まで…ありがとう、ございます。先生」










■  ■  ■











「良かったのか?」
いつの間にか隣にさり気なく立った伝蔵が、静かに問うてきた。
「私にきり丸を止める権利はない。寂しいことだが、こればかりは仕方がない。 忍びだけが人生じゃない。他に道があるのなら本人の希望する道を歩ませてやりたいとも思う。 だが半助、お前にはきり丸の人生の一端に関わる権利がある。 私には、きり丸がまだお前と共に居たいと思っているように見えたが…」
伝蔵はいったん言葉を切り、念押しするように続けた。
「止めなくて、よかったのか?」
半助は苦笑しながら力なく首を振った。
「止められるわけありません」
伝蔵が何か言おうとするのを遮るように続ける。
「あいつに居てほしかったのは、わたしの方なんですから」


思い出すのはこれまでの日々。
忍術学園に入ってからは生徒たちの起こす面倒ごとで忙しくて、家など滅多に帰れなかった。
だから家でひとり過ごす時間など、ものの数にも入らないと思っていた。
そうではなかったと気付いたのは、きり丸が家に来るようになってからだ。
彼と自分がいた、その時その場所は、ただの寝泊りする場所ではなくれっきとした「家」だった。
そしてその「家」に居たのは教師ではなく一個人としての土井半助で。
そんな時間を本当は自分がどれだけ欲していたのか、ようやっと気付いたのだ。


「口では怒ってばかりいましたが、甘やかすことがわたしは嬉しかった。 あいつもきっと、わたしの内のそんな心に無意識のうちに気付いていたのでしょう」
半助は思い切るように瞼を閉じ、そして開いた。
「確かに、共にいれば結局わたしはあいつを甘やかしてしまい、それはあいつの成長を妨げる。 本当はできる子なのに、いつまでもわたしに縛り付けておくわけにはいきません」
言い切る言葉は、まるで自分に言い聞かせるかのようでもあった。
「そこまで思っているなら、もう何も言わん。だが」
長い沈黙の後、半助に背を向けた伝蔵は、立ち去り際に一言だけ残した。
「後悔だけはせんようにな。…お前のためにも、きり丸のためにも」










■  ■  ■











言葉通り、きり丸はその日のうちに去って行ってしまった。
級友にも、会えば決心が鈍りそうだからと伝言だけを残し、荷物ひとつ残さず、きれいに彼のいた痕跡を消して。




出て行くと言われたとき、こちらの心を見透かされたのかと不覚にも動揺した。
側にいてほしいという思いは、存外優しくて義理堅いこの子を縛り付けることになる。
だから自覚してからは表に出さないようにしていたが、それが悟られたのかと。
さらに情けないことに、厭われたのかと思い悄然とした。

そうしてできた心の奥の疚しさが、己の感覚を鈍らせた。


もっと問い質すべきだったのだ。
せめて、彼の住み込み先となる商家について事前にもっと調べておくべきだった。

きり丸が突然、忍術学園からも半助からも離れたいといった理由。
彼が口にしたことも、確かに一因ではあったのだろう。
だが全てではなかったはずだ。
なぜいきなりそんなことを言い出したのか、もっと不審に思うべきだったのに。








結論から言うと、きり丸はその日以来、半助ら教師の前からも、は組の友人たちの前からも完全に姿を消した。

彼が場所と屋号だけ告げた商家は存在せず、二年経った今も、彼の消息はようとして知れない。









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2008.07.21

気長にお付き合いいただければ幸いです。







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