目を覚ました花は、まず不思議そうに天井を見上げた。
数拍置いて、
「気分はどう?」
頃合を見計らったかのように、花を緊張させない優しい声がそっと尋ねてきた。
「…大丈夫、です」
「どこか痛いところは?」
「ない、です」
「息苦しさはない?吐き気は?」
「どっちも、大丈夫です」
「そう。…良かった」
次々飛んでくる質問に条件反射的に答えていた花は、質問が途切れ、
相手がほっと息を吐いたところで、ハッと目を見開き、飛び起きた。
「こ、ここは…私の部屋…?いったい、何が…」
静かに混乱する花の髪が、至極優しい手つきで撫でられた。
少し落ち着きを取り戻した花は、
その心地良さを与えてくれる人物へと視線を向けた。
相手をじっと見詰めてから、そして少し目を伏せ視線を外す。
「孟徳さん…また助けてもらっちゃいましたね。ありがとうございます。でも…」
「でも…何かな?さっき言ってた一緒にいられないっていう話なら聞かないよ」
機先を制した孟徳に、花は暫し口を閉ざす。
その様子を見た孟徳が困ったように笑った。
「あのね、花ちゃん。多分、今君は、何て言えば俺をうまく納得させて
俺から離れられるかとか考えてるんだろうけど――」
図星を指された花は、きゅっと布団の端を握り締めた。
孟徳はあえてそれは見ぬ振りで続ける。
「――こうは考えないかな?俺が全て知っていて、その上で君を迎えに来た、とかね」
「な…」
思いも寄らない言葉に、花は絶句した。
孟徳は暫し思案気に目を閉ざし、その後、徐に口を開いた。
「確かに、君からすれば、すぐに納得できる話じゃないだろうね。
それじゃ、順番に話そうか。君は何から聞きたい?」
何からと言われても、聞きたいことが多すぎて絞れない。
強いて言うなら先ほどの孟徳の言葉の意味を聞きたいところだが、と考えて、花は「あっ」と声を上げた。
「そういえば、孟徳さんの至急の用件って何だったんですか?もしかして、何か大変な問題が起こったんですか?」
孟徳は意表をつかれたようだった。
暫し黙り込み花を凝視し、その後天を仰いで大きな溜息を吐く。
「…本当、君って…」
「あの…?」
何かまずいことを聞いただろうかと目をおろおろと彷徨わせた花に、孟徳が視線を戻して破願した。
「君はそうやって自分のことは後回しにするんだよね。
正直さと並んで、そういうところも君の美徳だとは思うけど、
でももう少し自分のことも考えてね。でないと俺の心臓がもたない」
「えと…それって、どういう…」
「うん。まぁ、いいや。その分、俺が君のことを考えるから」
勝手に何かを納得している孟徳に、花が口を挟む機会を見つける前に、孟徳自身が話題を戻した。
「そう、今日ここに来た用件だったね。至急は至急だったよ。
でも献帝に会いにっていうのは名目。本当は君に会いに来た。
…あー、ちょっと正確じゃないかな。さっきの君を殺そうとした男がいただろう。
あの男が君のすぐ近くまで迫ってるって情報が入ってきたんだ。それで、急いでここに来た」
「そう、ですか…」
至急の用件が、自分が考えたような国を揺るがす一大事ではなかったことにひとまず安堵した花は、
それから一つの事実に気付いた。
「…ということは、孟徳さん、私がここにいることを前から知ってたんですね。
いつから知ってたんですか?私が…この世界にいるって」
今の孟徳の話では、花がこの城にいることは既に前提事項だ。
「そうだな…三月ほど前、かな。献帝に君の存在を仄めかされてね。
情けないことに、それまでは全然気付かなかったよ。君がこの世界の、しかもそんな近くに戻ってきてるなんて」
「献帝…陛下に…?」
花にとっては盲点だった。まさかその経路で孟徳に話が伝わるとは思っていなかった。
「陛下は君のことを案じておられたよ」
「え?」
「だから俺に君のことを話した後も、彼女の意思を無視してここから連れ出すことはならぬ、ってね。
随分な懐き様だよ、まったく」
面白くなさそうに鼻を鳴らした孟徳に、花は首を傾げた。
「孟徳さん?」
「…いや、何でもない。…それで、俺は君のことを知って――」
気を取り直したように話し始めた孟徳だったが、そこで言葉を切り、花に視線を流す。
「――どうして、すぐに君のところに来なかったんだと思う?」
「え…」
突然話を振られるとは思っていなかった花は、二、三度瞬きをした。
どうしてと言われても…と言いかけて、花は顔を曇らせた。
あの噂を思い出したためだ。
もちろん気付かぬ孟徳ではない。
「ん?どうかした?」
「いえ…その……噂で聞いたんです。孟徳さんの新しい恋人が…えっと…すごく綺麗な人だって…だから…」
不自然な言葉になったが、孟徳は正確に意味を掴んだらしい。
手を挙げて続きを制される。
「ちょっと待って。…もしかして、俺が心変わりしたからだとでも思ってる?だとしたら流石にちょっと傷つくんだけど」
そう切り返されると「はい」とは言えず、かと言ってこれまでもやもやと燻っていた疑念を
なかったことにするわけにもいかない。
花の表情の移り変わりをじっと見て、その心情を推し量ったらしい孟徳は、参ったと言わんばかりに頭をかいた。
それからまっすぐ花に向き直る。
「その噂って誰から聞いたの?どういう噂?」
「あの…本当に噂でちょっと聞いただけなので、詳しくはわからないんですが…
孟徳さんの新しいお相手だっていう女官の…すらりとした綺麗な人とか、に…肉感的な美女とかと…その…」
尻すぼみになる花の言葉に、孟徳は、何だそれと眉を顰めて考える素振りを見せたが、すぐに相好を崩した。
「ああ、彼女らのことか」
花は俯く。本当かどうかわからない責任のない噂話ですら傷ついたというのに、
本人からそれを認めるような言葉を聞くのは結構辛い。
そんな花の顔を、ひょいと孟徳が覗き込んだ。
「大丈夫。君が心配するような間柄じゃないから。
それに、少なくともその『すらりとした』人っていうのは、君も会ってるはずだよ」
「え?」
「何度か君を助けた…最近入った女官がいるでしょ。彼女だよ」
「え…。え…?」
孟徳の言っている言葉の意味がわからないわけではないが、それがどう繋がるのかわからず混乱した花に、
孟徳は苦笑いを零した。
「彼女はね、君の見張りを兼ねた護衛だよ。献帝に許可をもらって、彼女を含め三人ほど俺が送り込んだ」
「え…ええっ?」
驚きの声をあげたが、同時に、だからさっきはあんな風に剣を振るって戦えたのかと頭の片隅で納得した。
つまり、花を殺そうとした男の言ったことは逆だったのだ。
彼女が戦っていたのは恐らく先ほどの男の仲間で、そちらが花に矢を射掛け、
彼女はそれを止めるべく戦ってくれていたのだろう。
そしてそれを見ていた男は、意外な護衛の存在を知り、花を保護する振りをして、花を護衛から引き離した。
そう考えると辻褄が合う。
「念のための護衛だったから、君が本当に狙われてるって報告を受けたときは焦ったよ。
さっき君が言ってた噂の発端は、彼女らから定期報告を受けてるところを誤解したんだろうね。
ま、一応人目を忍ぶ形だったからそんな風に間違った解釈になったんだと思うけど」
「そ、うですか」
疑問はまだまだ沢山残っているが、ともかく花の中に浮かんだのは、安堵だった。
「……良かった」
思わず、小さく呟きが漏れる。と、それを拾った孟徳がなぜか嬉しそうに笑う。
「嫉妬、してくれたんだ?」
「…っ」
赤く染まった顔は、どんな言葉よりも雄弁で、孟徳は笑みを深めた。
居たたまれなくなった花が、慌てて話題の転換を図る。
「そ、それで…いえ、それなら、今まで私を見逃していた理由は何なんですか?」
「理由は二つあるんだ」
孟徳は指を二本立てて見せた。
「二つ?」
「そう。一つは、君に逃げられないため。
…最初はね、君が例の『本』を持っているんじゃないかと警戒したんだ。
あれは火事で燃えたはずだったけど、今君がここにいるということは、
何らかの形であれが甦ったのかもしれない。それを君が手にしているなら…
もし君が本気で俺に会うことを避けるつもりなら、下手に俺が君に近付いたら、
君は元の世界に帰ってしまうかもしれない。そうなったらもう手が出せなくなるから」
花は、なるほどと得心した。
自分が再度こちらの世界に来られたのは相当にイレギュラーなケースだったと思う。
おまけに、こちらの世界に来たとき、やはり想像通り本は花の手元にはなかった。
その後どこかで見かけるなんていう偶然もなく、今も、花は本を所持してはいない。
けれど、花の事情を知らない孟徳から見れば当然、本の存在を考えるだろう。
納得して、それから花は孟徳の台詞に引っかかりを覚える。
「…『最初は』?」
「そう。最初は」
孟徳は繰り返した。
「君、俺が帝に会いに来る度に城から逃げてたよね」
「う…」
うっかり見つからないようにと思っての行動だったが、孟徳が花の存在に気付いていたとなると、どうにもばつが悪い。
けれど孟徳はそのことを責めるでなく、口元に笑みを刷いた。
「だからだよ。だから気付いた」
「…どういうことですか?」
「俺から逃げるなら、万が一会ってしまったときのために本を持っていくのが当たり前。
けど君は、一度もそれらしきものを持っていなかった。だから君は少なくとも今現在あの本を持っていない。
それが俺の結論。当たってる?」
言葉だけは疑問形だが、表情は既に確信を得たものだ。
花はしぶしぶ「はい」と答えた。
「じゃ、次だね。君は本を持っていない。つまり、帰る手段を持っていない。
なのになぜ、俺と会えない理由を、元の世界に戻らないといけないから、としたのか」
「それは……え?」
「ああ、ごめん。正確じゃなかった。君はこう言ったんだよね。
『あと半年ほどしかここにいられない』。君が帰る手段を持っていないという前提なら、
…考えたくはなかったけど、その意味するところは一つしかない」
花は息を呑んだ。
孟徳の読みの鋭さにも驚くが、それ以前に、どうしてその情報を孟徳が得ているのか。
「その言葉…どうしてそれを…」
「元譲から聞き出した。ま、一応言っとくと、あいつは結局自分からは君のことを何一つ俺に言わなかったよ。
そういう約束だったんだろ?結局ぼろを出して俺に気付かれたけど」
「は…はい。すみません」
「君が謝らなくていいよ。君との約束を守りきれなかったという点でも、
上司である俺に意図的に隠し事をしたという点でも、悪いのは元譲だ」
元譲が居合わせたら、あまりの理不尽さに言葉を失いそうなことをさらりと言った孟徳は、
内緒話をするように口の前に人差し指を立てた。
「人魚姫」
「え?」
突然出てきた単語がどう繋がるのかわからず困惑した花に、孟徳は笑いかけた。
「君がここにいると俺が知ったとき、まさか元譲や文若が既にそのことを知っているとは思ってなかった。
でも、何かの折にたまたま口にした『人魚姫』って言葉を、元譲が知ってたんだ。
それで、怪しいと思った。ついでに言うと、文若に関しては、
元譲と献帝が知ってるならあいつも知ってる可能性が高いと思って鎌をかけた」
「それだけで…」
花は呆然とするが、孟徳にとってはさほど大したことでもないようで、「まあね」と軽く受けると、話を続けた。
「俺はね、花ちゃん。人魚姫を泡にさせないために、『今』ここに来たんだ。
それが、これまで君の元に来なかった理由の二つ目」
花の身体がびくりと震える。孟徳は本当に全てを…この身体のことも知っているのだと悟らざるを得なかった。
近い将来、泡になるしかないこの身のことは、孟徳に一番知られたくないことだった。
「孟徳さん…私は…っ」
消え入りそうなほどの声音で小さく叫んだ花の頭を、ぽんぽんと宥めるように孟徳が撫でた。
同時に、耳元まで降りてきた唇が「大丈夫だから、落ち着いて」と優しく囁きを吹き込んだ。
「……っ!」
落ち着いたからではなく別の理由で言葉を失くした花が耳を押さえて口をぱくぱくさせていると、
孟徳は楽しそうに笑いながら、懐に手を突っ込み無造作に袋を取り出した。
「これ、何だと思う?」
花はまだ赤みが残っているであろう頬を隠すように抑えたまま、孟徳の掲げた袋を見た。
孟徳は袋の中からさらに白い包みを取り出した。
花は目を見開く。
「それって…私が孟徳さんに飲ませようとした眠り薬…ですよね」
「残念、違うよ。見た目は一緒だけどね、中身は別。と言ってももうこの包みの中には何も入ってないんだけどね。
使っちゃったから」
「使った…?えっと…その薬は一体…」
「薬って言っても、君の思ってるような人を癒す『薬』じゃないよ。毒薬、だね。君を殺しかけた、あの毒だ」
今は空だという小さな包みに向けた孟徳の視線は凍えるように冷たい。
冷気に当てられ、ぶるっと花が身を震わせたことに気付いたのか、孟徳の視線が花のところへ戻ってきた。
花に据えられた視線は、温かくて柔らかい、花にとってはいつもの孟徳のものだ。
「大丈夫?…ごめん。嫌なこと思い出させたかな」
「あ、いえ、大丈夫です!」
慌てて花が首を振る。
「あの、でも、使っちゃったって…毒を、使ったんですか?」
恐る恐る聞くと、孟徳が苦笑して花の髪をくしゃりとかき混ぜた。
「違うよ。そういう使い方をしたんじゃない。…ね、言わなかったっけ?
俺は、人魚姫を泡にさせないために、今まで君を迎えにくるのを我慢してたんだ」
「そ…れって…」
「君の身体に残った毒のことも、その発作で君が苦しんでたことも、治すには何が必要かも、全部知ってる」
孟徳は、袋の中からまた別の包みを取り出した。
「それで、さっきの毒を使ってできたのがこっちの正真正銘の『薬』。
丁度今日、薬が完成したって届けられたんだ。…さっき君に飲ませたものだよ」
「え、そんな薬、飲んでな…」
言いかけた花は、意識を失くす直前の状況を思い出し、暫く何かを考え込み、それから真っ赤になった。
嬉々として孟徳が追い討ちをかける。
「ごめんごめん。飲んでって言ったんだけど、ちょっと自分では飲めそうにないみたいだったから。
それによく考えたら君も同じ事を…」
「も、もういいですその話は!」
花は慌てて孟徳の言葉を遮った。
あのときは切羽詰まっていたし、必死の行動だったけれど、今その話を持ち出されると非常に恥ずかしい。
穴があれば入りたい、を超えて、掘ってでも穴に入りたい気分になる。
孟徳は楽しそうに笑いながらも、それ以上の追及はやめてくれた。
「この薬は、一度飲んだだけで完全に解毒ってわけにはいかないけど、
時間をかければ徐々に体内の毒は薄まっていって、最終的には完全に消えるそうだよ」
孟徳の言葉を、咀嚼するように噛み砕いた花は、まず信じられないと首を振った。
「ほん…と、に…?」
「俺は君に嘘は吐かないよ」
軽く言われたが、目は真剣な光を宿していて、花はそれが真実だと直感した。
「あ…、で、でも、毒はあの事件のあと全て処分されたって…」
「そうみたいだね。でも、あの毒は、一つだけ残ってたんだ。
最初に実行犯からこの毒を押収した後、ほとんどは処分されたと思うけど、一つだけ、俺が個人的に持ってた」
なぜそんな毒を孟徳が持っていたのかと首を捻る花に、孟徳が密やかに告げた。
「君がいない世界に耐えられなくなったら…これを飲もうと思ってた。
…ごめん。君は俺を命懸けで助けてくれて、俺に生きろと言った。だから俺は生きなきゃいけない。
そう思ってはいたんだけどね」
「ごめん」ともう一度言って自嘲気味に笑った孟徳に、花は「あ…」と呟き、泣きそうに顔をくしゃりと歪めた。
「謝らないでください。謝らないといけないのはむしろ私の方です」
こちらに戻ってきたことを隠していたことも、それより前に、
孟徳を信じていなかったせいで暗殺計画の一端を担いそうになっていたことも、
その結果、孟徳の命は守れたが代わりに彼を酷く傷つけてしまったことも。
堪えきれず、顔を覆った花を、孟徳がそっと抱き寄せた。
「…気付けてよかった。君が泡になる前に。そうでなかったら、俺もあの馬鹿な男と一緒になるところだった」
花の髪に鼻を埋めた孟徳のくぐもった声は、響きは優しいけれど、男に対しては容赦がない。
花は泣き笑いを浮かべた。
「でも、孟徳さん。それでも、人魚姫は幸せだったんです。私はそう思います」
暫く沈黙してから、そうかなあと不服そうに孟徳が答える。
それも何となく可笑しくて、花は、
「…でも、私はもっと幸せです」
小さく呟くと、孟徳の背にぎゅっと手を回してしがみ付いた。
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2011.01.04
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