人 魚 姫  恋 歌  #20






「ここでいったん身を潜めましょう」
人気のない廊下を暫く走った男は、扉を開け放ったままの広間へと花を促した。
花はゆっくりと頷くと、先に部屋に入った。
後に入ってきた男は、花を安心させるように笑みを浮かべて近寄ってきた。
「これでひとまず安心でしょう。さて、あなたを狙っている奴らのことについて、 いくつか教えていただきたいのですが…」
「――止まってください」
近寄ってくる男を、花が固い声で制止した。
「女官殿?どうかなさいましたか?」
「あなたは………誰ですか?」
花の質問に、男は困惑したように眉を上げた。
意味がわからないと言いたげな男の表情に、花は言い方を変えた。
「あなたは、なぜ、私が狙われたことを知っているんですか?」
「それは、そういう報告を受けたからで…」
「私が…崖から突き落とされたということをですか?」
「その通りです。女官殿が狙われているということを知った私の部下が、 それとなく、あなたに危害が及ばないよう見張っていたのです。 残念ながらそのときは間に合わず、お助けすることは叶いませんでしたが…その報告を、私が受けて……」
「私は、崖から突き落とされていません」
きっぱりと言った花に、男が明らかに動揺を見せた。
花はやはりと確信を深める。
違和感の原因はこの男の台詞にあった。
あまりにタイミングよく現われたということも花に疑いを抱かせたが、 何より気になったのは花が狙われていたと、この男が知っていたこと。
より正確には、誤った情報で知っていたということだ。
「私が崖から落ちたのは、鳥を助けようとしたからです。 …もしかしたら、そのとき私を崖から突き落とすという計画があったのかもしれません。 でも実際に落ちた原因は、事故のようなものなんです。 それなのに、どうして『崖から突き落とされた』なんて実際には起こっていない報告を あなたが受けることができるんですか」
考えられるのは、男は事前にそうなるであろうことを知っていたということ。
事前に花が『崖から突き落とされる』ことを知っている者など、それを指示した者しかいない。

訝しげに花の言葉を聞いていた男だったが、ふいにその口が歪んだ弧を描いた。
次いで、くっくっと笑い出す。
「なるほど。女にしておくには惜しい。献帝のお気に入りってのも頷ける」
口調を粗野なものに変えた男に、花はごくりと唾を飲み込んだ。
男から距離を取るように一歩足を下げる。
「あなたは…誰なんですか?どうして私ここまで連れてきたんですか」
「おやおや、冷たいなぁ。女官殿。あんたと俺は今朝が初対面じゃないんだぜ?あんたもそれはわかってたんだろ?」
男は舌なめずりをして、濡れた唇を手の甲でぐいと拭った。
その瞬間、口元が隠れたせいで目元だけが花の目に映る。
鋭く剣呑な目つきが花の記憶を一際強く刺激した。
「あ…あなた…!街で見た…」
花は大きく目を見開いた。
路地で密談をしていたうちの一人。
花の視線に感付いて、物騒な目でこちらを見た男。
鋭いその視線が、目の前のこの男の目と重なった。
「あのときの話の内容までは聞いていなかったようだから最初は見逃してやろうかと思ったんだがな。 これほど帝に近い立場にいるあんたは危険だ。何かの拍子に俺のことを喋られちゃ困る」
「喋るって言っても、私は何も…」
花が知っているのは街の路地で何か怪しげな話をしていたということだけ。
彼が密談をしている雰囲気でした、など何の報告にもなりはしない。
だが、男は「いいや」と頭を振った。
「話の内容じゃねえ。あのとき、俺がこの国にいたことを証言されるとまずい。 今まで間諜の任の裏でうまく情報を横流ししてきたつもりだったが、最近俺を疑う奴が出てきてな。 その疑いから逃げるためには、あのとき俺はこの国にいちゃまずいわけよ」
男の言葉は花に断片的な情報しか与えなかったが、知っている事柄を脳内で組み立てると、一つの形が見えた。
「二重スパイ…」
思いついた単語をぽつりと口にした。
あちらの世界の言葉なので、一瞬男は、何のことかと不審そうな表情をしたが「二重」という部分で 花が何を指したのかおぼろげながら察したらしい。
にやりと嫌な笑みを浮かべた。
「正解だと言っておこうか。だから、俺にとっちゃ、帝と丞相は対立してる方が都合が良い。 その方が動きやすいからな。逆に、仲良く手を組まれちゃ困る。 先だっての話し合い以来、溝が埋まってきてるって話だから、 慌てて仲違いさせる策を練ってたんだが…案外、あんたを使う方が都合が良さそうだな。一石二鳥だ」
「どういう、意味ですか?」
花は気丈に問い返す。

男はまだ多くを語っていなかったが、充分なほど伝わったことがある。
この男は、自身の利益のためだけに他人を当たり前のように犠牲にしようとしている。
嘗て玄徳軍に世話になっていた花は、掲げる理想の違いから、玄徳と孟徳が対立することは、 納得はしていないけれど何となく理解はできた。
彼らだけでなく、先日までは対立の構図にあった孟徳と献帝も。
どちらが悪いわけではない。
彼らは国を、人民をよく見ている。
恐らくは目指す未来も同じだ。
国を一つにまとめあげ、平和な治世を行うこと。
ただそこに至る方法が違うから、対立することになってしまう。
けれどこの男の言っていることは違う。
孟徳と献帝が歩み寄り、無益な争いを減らそうとしているこのときに、 男は私利私欲のためだけに、その関係を壊そうとしている。
そのせいで、必要のない犠牲が増えるかもしれないことなどお構いなしに。
こんな男に屈するのは絶対に嫌だった。
それに、「使われる」のも御免だ。
花は男を睨み据えた。

「あぁん?俺があんたをどう使うかって?なぁに。簡単なことさ。 あんた、献帝のお気に入りなんだろ?そのあんたが、丞相の手の者に殺された、ってなことになったら、 献帝はどうするだろうなぁ?」
「…っ!」
「それでも丞相と信頼関係なんてものを結べるほど、献帝は薄情なお人なのかねぇ?」
「そんなこと…」
怒りで暴発しそうになる心を、花は必死で宥めた。
今ここで発作など起こしたら男の思う壺だ。
そんなことは絶対に許せるわけがない。
仮に、献帝と丞相の関係改善のために命を捨てろと言われたらもしかしたら迷ったかもしれないが、逆など論外だ。
「いずれにしても、この顔を見られちまったからには、可哀想だが死んでもらうしかねえ。覚悟しな、女官殿?」
耳障りな猫撫で声で呼びかけられ、花はぞくりと身を震わせた。
逃げようと思うが、明確な殺意と凶器を目前でちらつかされた恐怖は花の身体から自由を奪っていた。
花が硬直したまま凝視する先で、振りかざされた白刃が光る。
動けない花は、迫る刃を呆然と見詰めた。



キィンとすぐ間近で火花が散った。
白刃は花を突き刺すことなく、その直前で、『別の何か』に止められていた。
「…間に合ったね」
片腕で花を抱きこむようにしながら、もう片方の腕で剣を受け止めた人物は、そう言った。
斬られそうになった恐怖でなく、別の衝撃で花の心臓がどくんと大きく鳴った。
何よりも聞きたくて、同時に、何よりも聞きたくない声だった。
恐る恐る視線をずらす。
こちらに向けられた刃ではなく、それを防ぎ花を守る剣。
それを掴み自在に操る手。
さらに辿ると、翻る緋色の袖。
しゃらと軽い音を立てる黄金の耳飾り。
そして、今はその眼力だけで敵を威圧し戦力まで喪失させそうなほどの鋭さと強さに満ちた、琥珀の眼差し。
「もう、とく、さん…?」







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2011.01.02














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