「おはようございます」
知った顔を見つけて、花は挨拶とともに頭を下げた。
「ああ、おはよう」
にこやかに返してくれたのは、献帝の側近くに使えている官吏で、花ともよく知った仲の男だ。
「あ…すみません。お話の邪魔しちゃいましたね」
声をかけてから、連れの存在に気付いた花が慌てて謝罪する。
それから、あれ、と首を傾げた。
武官風のがっしりした体型の男の顔に見覚えがあった。
だが、どこで会ったのかは覚えていない。
思わずその男をじっと凝視した花に気付いた官吏が、気を利かせて紹介をしてくれる。
「花殿には初めて見る顔だろう。なにせ、この男は長年諜報活動をしておって、昨日こちらに帰ってきたばかりだからな」
「え、そんなことは――」
どこかで会った気がする。今日昨日というわけではないが、比較的、最近に。
そう言おうとした花より先に、紹介された男が機嫌よく花に笑いかけてきた。
「初めまして、女官殿。それにしても仕事で城を長く離れているうちに、
このような可愛い女官が入られているとは、いやはや勿体無いことをした!」
「は…はぁ…」
社交辞令だとは思うが、慣れていないので咄嗟にどう返してよいかわからず、花は曖昧に微笑んだ。
「む。いかんぞ。彼女はいかん。何しろ陛下のお気に入りだからな」
「おお、なんと!陛下の!道理で、ただ可愛いだけではない魅力にあふれていらっしゃると――」
本当に慣れない、と思いながら花はそっと後退り、その場を去る準備に入った。
確かに献帝にはよくしてもらっているが、だからと言ってすぐにお気に入りとかそういう表現になるのは理解できない。
献帝が花に居場所を提供してくれたのは、贈り物のストラップの礼と、
あとは行き場のない花を気の毒に思ったからだろうし、毎日のように話し相手になっているのも、
この世界の常識から外れた花と話すのが興味深いからだろう。
お気に入りとかそんな大層なものではないと花は思う。
「あ…すみません、そろそろ私、行きますね」
少し引き攣ってしまったかもしれない愛想笑いを浮かべつつ、花は礼を逸しない程度にその場を抜け出した。
それは日常の本当に何気ない一コマで、だから発作の心配さえ除けば、
この日も何の変哲もない一日が過ぎるのだと花は信じて疑っていなかった。
異変があったのは夕暮れ時。花は何やら城内が慌しいことに気付いた。
「あの、すみません。今日は何かあるんですか?」
通りすがりの顔見知りを捕まえてそう聞いた花は、帰ってきた答えに青ざめた。
「どうして…そんな、いきなり…っ」
最近は身体に負担をかけないよう、なるべく走らないようにしているが、今はそうも言っていられない。
『これから丞相がおいでになるんだよ!陛下に至急の用件があるとかでね!皆、その準備でおおわらわさ!』
花にそう答えた顔見知りは、本当に急いでいたのだろう、花の反応も待たずに去っていった。
おかげで花の様子がおかしかったことには気付かれなかっただろうが、今の花にはそれに安堵する余裕もない。
「早く城の外に出なきゃ…」
周りの様子を見ようと窓から外をのぞくと、遠くに見える城の入り口付近に、既に数人の人影があることに気付いた。
呆然と呟く。
「孟…徳、さん…」
遠目だが見間違えるはずがない。
呆けたように暫し固まっていた花は、突然びくっとして、その場にしゃがみ込んだ。
心臓が早鐘を打ち出す。
「なん…で…?」
動悸は治まりそうもない。
気のせいに違いない。あんなに遠くからでわかるわけがない。
そう思うのだが、先ほど、孟徳の目がこちらを捉えたような気がした。
結局、常よりも強化された警備の中、城から出ることは不可能だと花が判断するまで、それほど時間はかからなかった。
入り口はもちろん庭にも見張りの姿がちらほら見える。
どこから抜け出しても人目に触れるのは間違いない。
普段人があまり通らない区域に移動して考えを纏めていた花は、自分自身に落ち着け落ち着けと言い聞かせた。
突然のことに慌ててしまったが、よく考えてみれば孟徳は献帝に会いにきただけだ。
であれば、花は孟徳が立ち寄る場所を避けていれば良いだけではないか。
用心はするに越したことはないが、神経質になりすぎたかもしれない。
この場所は人気はないが、ここでじっとしているのも居心地が悪い。
とりあえず部屋へ戻ろうと踵を返しかけた花だったが、ひとつ気に掛かることがあった。
「孟徳さんの至急の用件って何なんだろう…」
実際に国政を動かしているのは丞相である孟徳だ。
孟徳では判断できない重要案件の裁可を帝に求めるというのは考えにくい。
どうにも嫌な予感がする。
孟徳は徒に調和を乱す人ではない。
自分が動くことに対しての周囲の影響も正しく理解している。
その彼が、至急の用件といってわざわざ自らやって来るなんて、何かそれだけの事件が起こっているとしか思えない。
廊下の途中で、つと立ち止まり考え込んだ花のすぐ脇を何かが掠めた。
「え…?」
すぐ近くを通った空気を裂く音に本能的に身を竦ませた花は、振り返り様に息を呑んだ。
「うそ…矢…?」
壁に突き立った矢は、衝撃でまだ矢羽根部分が揺れている。
これが刺さっていたらと思うとぞっとする。
しかし考えている時間はなかった。
キィンと金属がぶつかるような音に、花は辺りに視線を走らせて、廊下の奥に二つの人影を発見した。
忙しなく動き回っているのでよくは見えないが、互いに短い剣のようなものを持っているようだ。
二人がぶつかるたびに先ほどと同じ音が聞こえた。
戦場には同行したことがある。命懸けの斬り合いを見るのは初めてではない。
けれどまさかこんなところで斬り合いが始まるなんて誰が思うだろう。
しかも、斬りあううちの片方に、花は見覚えがあった。
「あの女官の人が…どうして…」
何度か花を助けてくれた、所作の優雅な非の打ち所のない女官が、
これまで見たたおやかさなど微塵も感じられない俊敏な動きで相手と切り結んでいる。
とりあえずここから離れるべきだということはわかっていたが、想像もしない出来事に、頭がついていかない。
呆然と斬り合いを見詰めていた花の腕が、不意に背後から引かれた。
「今朝の女官殿ですな!こちらへ!」
「え…っ!?」
花が振り返ると、今朝出会った男が息を乱して立っていた。
知り合いの官吏と一緒にいた、あの男だ。
「あの、どういうことですか?」
半ば強引に、引っ張られるような形で走りながら花が問いかけると、男は速度は緩めないままで答えた。
「あの女官が、あなたの命を狙っていたのです」
「えっ!?」
「あなたに近付き、その機会を狙っていたのですよ。最近、何者かに狙われたような覚えがあるのではありませんか?」
花はどきりとする。気のせいだと結論付けてはいたが、そう言われると確かに気になることはあった。
「仕事柄、そういった情報は私の耳によく入ってきましてね。
あなたが弓矢で狙われ、山で崖から突き落とされたという報告を部下から受けております」
「弓矢……崖…」
花は呆然と呟く。
まさかと思って気に留めていなかったが、確かに覚えのある符丁だった。
けれど、何かが気になる。心の中に僅かに芽生えた違和感に、花は戸惑った。
「今朝お会いしたのも何かの縁。流石にあの場でこういった物騒な話をするのは憚られましてな。
先ほど、念の為にご忠告申し上げようと来てみたら、あの現場に出くわしたというわけです」
「さっきのは一体…」
「女官があなたを弓で狙っているのを見つけて、共に参っておった部下を咄嗟に応戦させたのです。
ともかくあなたを安全な場所にお連れしましょう。さあ、こちらへ」
「は、はい」
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2011.01.02
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