「最近、元気がないようだが、何かお困りのことでもありましたかな」
顔見知りの官吏に鋭く言い当てられて、花は「大丈夫ですよ」と苦笑いするしかなかった。
困っているわけではない。
ただ先日聞いた使用人らの噂話が気になってしまうだけで。
丞相の新しいお相手、その言葉が棘のように花の胸に引っかかっていた。
最後に孟徳と会ったのは、高熱に倒れた孟徳の看病をしたときだ。
あのときの孟徳は間違いなく花のことを想ってくれていた。
けれどあれからもうだいぶ月日が流れた。
そろそろ孟徳が花のことを忘れ、未来を見据えて歩き始めたとしても不思議はない。
孟徳のためにはそれが最善であることは疑いようもなく、
だからあのときは、それこそを花自身も願ったはずだったのに。
それでも実際にそういった噂を聞くと胸中は複雑だ。
傍にいることもできず、じきにこの世界自体からもいなくなってしまう自分のことなど、
そのまま忘れてくれたらいいと安堵する反面、我が儘にも忘れないでほしいと願う自分がいることに気付いて愕然として、
次に深い自己嫌悪に陥った。
しかも、自分に残された時間を考えると、こんなことを悶々と考える間にもっとやることは沢山あるわけで、
一体私は何をやっているのだろうと、それもまた自己嫌悪の対象となる。
「そうか…となると…そうそう、丁度誰かに、街に反物を取りに行ってもらおうと思ったおったのだが、
良かったら気分転換に行ってみられませんかな」
親切な官吏は、賑やかな街の様子が、花の慰めになればと思って言ってくれているのだろう。
感謝しつつもそんな気分になれないのでその提案を断ろうとしたが、ふと思いなおして、花はその話を受けた。
街を歩きながら、花はちらちらと視線を左右に流す。
極力不自然に見えないように努力はしているが、隠密活動など縁のない花には難しいところだった。
せめてもの救いは、きょろきょろと挙動不審な娘がいる、ではなく、
若い娘が久々の街の様子を興味深く見回しているという解釈もできるという点だった。
「うーん…いない、よね」
そんなに簡単に見つかるわけないかと花は肩を落とす。
街への使いという言葉で、花は先日の怪しい男たちのことを思い出した。
街への用事を志願したのはあの男たちについて情報を集めるためだ。
改めて考えてみると、ごく個人的で我が儘な感情に振り回されている場合ではなかった。
偶然目にした男たちの密談が、悪事の算段だったとしたら放ってはおけない。
本当は事件でも何でもないのかもしれない。
けれど、もしかしたら、と考えると気楽に看過する事もできない。
もしそれが孟徳の命に関わることだったら、と思うと、想像だけで肝が冷える。
孟徳の傍にいてもいなくても、孟徳が自分のことを過去の者として忘れてしまったとしても、
花が孟徳のために何かしたいという気持ちは変わらないはずだった。
そう考えると急に心が軽くなった。
というか悩んでいる時間も惜しい。
孟徳のためにできることなど元々少ないうえに、時間も限られているのだから。
花は、以前、男たちをみかけた路地裏までやってきたが、やはり人影はなかった。
「そう簡単には見つからないかぁ」
はあと溜息を吐いた花は後ろ髪を引かれる思いでその場を後にし、
言い付かっている用事を済ませるために反物屋へと向かった。
預かった反物は、花でも楽に持ち運びできる程度の量だった。
反物を受け取りつつ、花は豪気そうな女主人に町の様子を聞いてみた。
「最近、街でおかしなこととか起こってませんか?例えば…柄の悪そうな人たちが集まってるとか」
「そういったことは特に起こってないねぇ」
女主人は首を捻ったが、思いついたように「ああ」と手を打った。
「柄の悪い連中って言うなら、最近そこの裏にある山で、人目を避けるみたいにこそこそ何かやってたらしいよ」
「裏の山、ですか」
「ああ。小さい山なんだけど山菜や薬草が採れるんだ。
いつだったかね…ついこの前だったと思うんだけど、山菜採りに山に入った奴が、先に山に入っていく男を見かけてね。
服装が山に入るような感じじゃなかったから、人目を忍んで逢引でもしてんじゃないかと思って
何となく聞き耳を立ててたんだけど、ずっとぼそぼそと低い小声で何か喋ってて、何だか気味が悪かったから、
場所を移動したって言ってたよ」
「それって、どんな人たちだったんですか?」
「さてねぇ…。もし逢引だったら、顔を合わせちゃ気まずいからね、姿は見ていないみたいだったよ」
「そうですか…。あの、その山ってここからすぐですか?」
「ああ、そこに見えてるやつがそうさ。…って、あんたまさか行く気かい?やめときな。
用事もないのに若い娘が行くような面白いとこじゃないよ」
顔を顰めて手を振られた花は、それには返答せず「気をつけます」と返し、お礼を言って店から出た。
店を出た足は、もちろん、その山へと向いていた。
幸い、女主人の言うとおり山はすぐ近くにあり、今から行っても、
夕暮れ時までには充分城に帰ることができる距離だった。
獣道だったらどうしようかと心配したのだが、山菜や薬草を採りに来る人のためと思われる道が存在していた。
人一人通るのがやっとというぐらいの小さい道ではあったが、ちゃんと道があったことにほっとする。
道なりに上がっていくと、木々に囲まれた一帯があり、いかにも薬草や山菜が沢山生えていそうな雰囲気だ。
この季節に生える山菜の種類は知らないが、もう少し時期を置いてから行けば、花も知っている山の幸が収穫できそうだ。
「ここで採った新鮮な山菜でお料理したら美味しそうだなあ」
そう呟いてから、花は自分自身の言葉に苦笑した。そんな先の話など、花には関係のないことだった。
でも時期と言えば、と花は、桂花を思い出した。
「もう一度、あの木が花を咲かせるのを見たかったな…。孟徳さんと一緒に…は無理だけど」
桂花の咲き頃など、それこそまだ先の話だ。多分、あの白い花を見ることも、あの匂いを嗅ぐことも、二度とない。
「――じゃなくて!」
感傷的な気分を振り払い、花は意識を、想像から現実へと引き戻した。
危うくここまで来た目的を忘れるところだった。
先ほどの女主人の話が、先日街で見かけた怪しい男たちと繋がるかどうかはわからないが、たとえ些細でも情報が欲しい。
「それに、こんなところまで来て内緒話なんて、普通じゃないよね。
ここで何かしてたのか…それとも、それだけ、聞かれたり見られたりしては困る、っていうこと…?」
何か手がかりになるようなものが残っていないかと道を逸れて探索を始めた花の耳に、小鳥の鳴き声が聞こえてきた。
風流な、というよりは、切羽詰ったような苦しげな鳴き声に、花は声のする方へと足を向けた。
「確かこの辺りから鳴き声が……あ!あんなところに!」
まるで、こっちだと言わんばかりの羽音に目を向けた花は、急な斜面の中腹で小さな鳥がもがいているのを見つけた。
「怪我してるのかな」
鳴いてもがくばかりで、一向に飛び立つ様子のない鳥に、花は思案気に眉を顰めた。
斜面のすぐ先は崖になっていて、あまり暴れるとそのうち落ちてしまいそうだ。
辺りを見回してどうしようかと考えた花だったが、決断は早かった。
「あの辺の蔦とか枝を伝っていけば、何とか行けそう」
生い茂る低木の枝や、絡まった蔦を見ながらルートを考えて、花は荷物を脇に置くと、慎重に斜面を降り始めた。
途中で何度か滑り落ちそうになってひやひやしたが、花は何とか小鳥の元にたどり着くことができた。
「もう大丈夫だよ」
暴れる鳥を宥めつつそっと手の中に収める。
ふぅと安堵の息を吐いて、立ち上がろうと腰を浮かせた瞬間、花は目を見開いた。
嫌な感覚が体の奥からせり上がってくる。
(なんで、こんなときに―――!)
ここで意識を失えば崖から落ちてしまう。
何とか堪えようと、近くにあった頑丈そうな木の枝を掴む。
だが、木の枝は、花の期待を裏切るように乾いた音を立てて折れた。
「――っ!?」
最後に何とか鳥を胸の中に抱きこんだが、それがどのくらい成功したかは花にはわからなかった。
意識を手離すと同時に、花の身体は崖の上から放り出された。
目を開けると視界一面、闇に包まれていた。
ぼうっとしていると、そのうち闇に目が慣れ、周りの景色が見えてきて、
そこが見慣れた自分の部屋だということがわかった。
私、どうしたんだっけ?とぼんやり考える。
身体に残る倦怠感に、そういえば発作を起こしたんだったと思い出した。
誰かが発見してここまで運んでくれたのだろうか。誰が、とか、どうして、とかいろいろ疑問はあったが、
それを突き詰めて考えることも億劫で、暫し考えることを放棄して目を閉じる。
そこで、一番重要なことに気が付いた。
あの時、確か鳥を抱えたまま崖から落ちたように思ったのだが……
「…?その割に、どこも痛くない、ような…」
発作で意識を失って、崖の上から転げ落ちたはずだった。
高さは数メートルはあったと思うので、
意識を失った状態で無防備に落ちたのなら、結構な打撲や、一歩間違うと骨折とか、
さらにはもっと酷い怪我をしていてもおかしくないと思うのだが、特に痛むところはない。
それを不思議に思いながら、花はゆっくりと身を起こし、
「…っ!」
ほんの一瞬、懐かしい匂いが立ち上ったような気がして、息が止まった。
「孟徳さん……」
そっと呟くと胸が軋んだ。
つい孟徳のことを考えてしまうというだけでも問題なのに、五感まで幻を捉えるようになったのであれば重症だ。
発作のせいで気弱になるのはいつものことだが、それにしても酷い。
花は自分に呆れて溜息を落とした。
「…そういえば、発作と言えば…」
花はゆっくりと手を持ち上げ、拳を握ったり広げたりということを数度繰り返した。
それから腕の力を抜いた。
重力に従って腕はぼすんと寝台に沈む。
「………前より、酷くなってる」
ぽつりと呟いた言葉は暗闇に溶けた。
全身、特に指先に残る倦怠感も、発作後、意識を失ってから目覚めるまでの時間も何もかもが前より酷い。
おまけに、これまでは意識が完全に飛んでしまうような発作は、
興奮状態にあるときぐらいだったのに、今日は違った。
確かに緊張はしたし精神的に負担はかかったのかもしれないが、それほど無茶をしたわけでもない。
つまり今日は、大した理由もなく、突如発作が襲ってきたということだ。
花は寝返りをうち、身体を丸めた。
元の世界での診断では、無茶をすれば半年もつか保証できないと言われた。
指折り数えるまでもなく、その半年はそろそろ目前に迫っている。
普段の健康管理はそれなりに気を付けていて、無茶もしていないつもりだ。
それに半年という期限も確かなものではなく大体の目安に過ぎない。
それでも、気付かないところで身体が徐々に蝕まれているのは確からしい。
花は泣きも喚きもしなかったが、ただ自分自身を抱き締めるように、両の二の腕をぎゅっと掴み、
布団の中にもぐりこんだ。
その後、いつの間にか寝入ってしまった花が次に気付いたのは日が昇ってからだった。
そのときには枕元に、女官と医者が座っていて、これまでの経緯を話してくれた。
「ありがとうございます。助けてくださって」
花を助けてくれたのは、以前にも発作をおこしかけたところで親切に声をかけてくれた女官だった。
「いいえ、どうぞお気になさらず。私は、あなたがなかなか戻らないから様子を見てくるように頼まれただけですわ。
そうしたら反物屋の女主人に山に行ったかもしれないとうかがって…
倒れているあなたを見つけたときは驚きましたけれど、ご無事でよかったですわ」
彼女はそこからすぐに城に連絡を取るとともに、街の知り合いに協力してもらい、花を城まで運んだのだという。
「あの…私、小さな鳥を抱えてませんでした?多分怪我をしてたと思うんですが…」
「ああ!その小鳥でしたら、あなたを城の入り口から部屋まで運ぶのを手伝ってくれた兵士に預けてありますわ。
鳥の世話に慣れていて、怪我を治したら山に戻してくださるそうですわよ」
「そうですか…」
花はほっと息を吐く。
「あの、ところで…私、崖から落ちた、んですよね?」
それなら、目立った外傷がないのがおかしいと花が零すと、女官は困ったように小首を傾げた。
「私が見たのはあなたが倒れていらっしゃるところだけですので…」
それもそうだ。花自身ですらわからないことを、彼女が知っているわけがない。
「そういえば草が茂っておりましたので、そのお蔭で落ちたときの衝撃が和らげられたのではございませんか?」
「そう、ですね」
釈然とはしないが、当時の状況など考えてもわかることではないし、
ともかく怪我がなかったのだからよしとしようと思った花の前に、今度は医者がずいと身を乗り出してきた。
「さて、では次はわしから話をさせていただこうか、女官殿」
患者が無理をしたときの医師からの言葉など、お説教だと相場が決まっている。
花としては無茶をしたつもりはないが、客観的には「無茶」の部類に入るかもしれないということも理解している。
それより何より、医師の笑っていない目が、花の推測が間違っていないことを裏付けている。
思わず助けを求めるように女官の姿を探すが、先ほどまでその位置にいた彼女はと言うと、
医師に席を譲り「それでは私はこれで」と部屋を出て行くところだった。
「さて、女官殿」
「は、はい…」
首を竦めた花は、想像通り、暫くの間、医師に懇々とお説教されることになった。
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2011.01.01
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