「あ…おーい!こっちこっち!」
花が、いつもの通り使いで城から出たときのことだった。
見知った下働きの女たちに呼び止められて、花はそちらに近寄っていった。
「どうしたんですか?」
見た目が女官ではあっても、彼女ら曰く「お高く止まっていない」花と彼女らは、
切欠さえあれば仲良くなるのも早かった。
とは言え、せいぜいが時々世間話をする程度だが、それでも花にとっては気晴らしになる楽しい時間だった。
「あんたも女官なら何か知ってんじゃないかと思ってさ」
「はあ。…何がでしょう?」
「丞相の新しいお相手の話だよ!」
「え…」
花の困惑を、単に何も知らないためだと思ったらしく、
「ちょっとあんた女官のくせに知らないの?」
「わ、私は…その…」
「ああ、あんた丞相府の方には行かないって言ってたから噂も聞いてないのかねぇ」
「え…ええ。まあ」
花はぎこちなく笑みを浮かべた。笑えている自信はあまりなかった。
花のいる場所柄、孟徳やその周辺の噂はあまり聞こえてこない。
例えば丞相が体調を崩して寝込んだとか、部下の誰々がこういう任についたとかこういう政策を決めたらしいとか
そういう噂はすぐさま回るが、逆に醜聞の類は意外なほど耳にしない。
花が最後に仕入れた孟徳関連の情報としては、先日、皇帝の元を訪れたということぐらいだ。
もっとも、これは噂ではなく直接献帝から聞いた話だ。
しかもその時間を狙って城から出たので、花はそのときの孟徳の様子すら知らない。
「ところでその噂って…どういう噂なんですか?」
そう聞くと、彼女らは次々と自分の持つ情報を教えてくれた。
「何でも最近、すらりとした姿の良い女官を、夜毎、自室に招いているそうだよ」
「私ゃ、城の人気のない場所で逢引してるって聞いたけどねぇ。
それに、すらりとしたっていうよりは、肉感的な美女だって話だよ」
「何言ってんのさ、あんたたち!あたしの聞いてきた話では…」
「今はあたしが喋ってんだからあんたはちょっと黙りな!大体…」
喧々囂々と言い争いに発展しそうになったところで、花は不自然な大声を上げた。
「あ、あの!」
皆、言い合いを止めて何事かと花に視線を集中させた。
花は視線を彷徨わせつつ、
「私、ちょっと急いでたのを思い出したので、そろそろ行きますね。えと…噂、教えてくれてありがとうございました」
ぴょこんとお辞儀をすると、小走りでその場を去った。
「…っは、はぁ、はぁ」
最初小走りだった歩調は何かに急きたてられるように徐々に速さを増して、いつの間にか全力疾走になっていた。
いい加減足ががくがくしてきたところで花は足を止めた。
そこは庭の一角で、木が何本も立ち並んでいた。
その一本の幹に手をついて、花は大きく深呼吸を繰り返した。
呼吸が落ち着いてくると、必然的に思考も冷静にまわるようになってくる。
話の途中で突然逃げ出した自分は、女性たちに不審に思われたかもしれない。
けれど、
『丞相の新しいお相手』
気になるくせに、あれ以上聞いていられなくて逃げ出してしまった。
孟徳には、孟徳の傍で常に彼を支え、その身を案じてくれる誰かが必要だ。
体調を崩して寝込んだ孟徳を密やかに見舞ったときに痛切に思った。
孟徳の傍にいられない自分ではその役目を果たせないから駄目だと。
わかっているからこそ、自分ではない他の誰かがその位置に立つことを認めたはずだった。
いつか彼が、常に傍らにある伴侶として奥方を迎え、子を生して、そうして幸せになってくれたらいいと思った。
その決意をしたつもりだったが、身近なものとして、本当の意味では理解していなかったのかもしれない。
未来のいつか、ではなく、すぐに目の前にある出来事だとは思っていなかったから、
あんな風に元譲に笑って答えられたのかもしれなかった。
「…やだな。私、何やってんだろ」
孟徳をあんなに傷つけておきながら、忘れることもできず、傍にいられもしないくせに、こんなところまで来てしまった。
彼のために何かしたかったけれど、結局自分のできることなんてほとんどなくて、
それなのに純粋に彼の幸せだけを祈ることもできないなんて、どれだけ自分勝手なんだろう。
誰かが孟徳の心を癒してくれるのであれば、二人を祝福して、その相手にお礼を言わなければいけないぐらいなのに。
「馬鹿みたい」
自嘲しつつ、花は顔を上げる。そしてふと庭の隅にある木に目を留めた。
「あれは…」
花が咲いていれば匂いですぐわかるのだが、今は時期ではないのですぐに判別はできなかった。
けれど、いったん元の世界に戻った後、あの木がやけに気になるようになって、
花が咲いていないときでもよく見ていたから、それがあの木だと気付いた。
花にとっては楽しい思い出に繋がる懐かしい木だった。
この世界に来て孟徳軍に身を寄せた後、あれが咲いていた頃が、今思えば一番平和な時間だったのかもしれない。
あの花を混ぜたお茶を淹れてもらった。そのお茶を二人で飲みながらいろいろな話をした。
例の本を読んでいる振りで昔話をした。
そんなに話が上手い方ではない自分が思い出しつつ語る昔話を、楽しそうに聞いてくれた。
時々、庭を散歩して咲き頃の花の匂いを二人で楽しんだ。それから。それから――
「……馬鹿みたい」
花は桂花の木を視線から隠すように、身体を反転させて幹に背を預けた。
ずるずると身体は下がり、地面に到達したところでぺたんと座り込む。
泣くつもりはなかった。
けれど頑張って大きく見開いたままの目からぽたりと地面に一滴が落ちて、
「あ…はは……馬鹿、みたい」
花は顔を歪めて笑った。
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2011.01.01
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