人 魚 姫  恋 歌  #16






そのとき、花は城の一番外側、庭と面した廊下を歩いていた。
日は高く上っていたが、雲が出ているので床にはごく薄い影がうっすらと映るのみだ。
欄干越しには大きな庭が広がっていて、この城の中でもっとも開放感のある場所でもある。
本来なら欄干沿いに歩きながら外の景色を楽しみたいが、先日、ここを孟徳らが訪れたばかりということもあり、 何となく内側をこっそりと歩いてしまう。
最近たまに、常に頭に薄布を被っていた方が良いだろうかと真剣に脳内で検討することがある。
もちろん、いつもそんなことをしていては不審人物と思われて余計人目を引くとわかっているので、実際にはやらないが。
それに、この辺りはいつもながら人通りが少ない。
時間帯のせいかもしれないが、庭から見られるかもしれないということさえ気をつければ、誰にも顔を隠す必要はない。
花はふわぁと欠伸をしかけて、慌てて噛み殺した。
女官の作法というものを古参の女官に教えてもらったときの条件反射がまだ残っているためだ。
というのも、ちょっと気を抜くとすぐに厳しい駄目出しをされたので。
とは言え女官としてここにいる以上、そういった作法を叩き込んでくれるのはありがたい。
おかげで、相変わらず女官らしくはないが、必要最低限の城での礼儀というのは習得できた……はずだ。
花はもう一度出てきた欠伸を、今度は最初から噛み殺して、何度か瞬きをした。
昼過ぎのこの時間は確かに眠気を誘う時間帯ではあるが、今日眠いのは、間違いなく昨日、遅くまで勉強していたせいだ。
近頃、献帝がめきめきと知識をつけてきている。
本人曰く「これまでの分を取り返したいのじゃ」ということだが、その進歩は目覚ましい。
それが必要な立場にいるとは言え、まだ十歳そこそこの子供がそこまで頑張っているのだ。
花だって負けていられない。
――という理由だけではなかった。昨日のは。
花は頬をぱちぱちと叩きながら小さく唸った。
「ちょっと無理しすぎた、かなぁ…」
昨夜は、寝入り端に不吉な夢を見て飛び起きた。
そこからは夢が気になって眠れなくなったので、気を紛らわせるために、 灯りを点けて勉強することにした。
どうせ眠れないなら、余計なことを考えないよう勉強していた方がいい。
昨日はそう思ったのだが、今はちょっと後悔している。
今の花は、無理をしてはいけない身体だ。
「でも昨日は……やっぱりしょうがないかな…」
先日街で密談の現場を見てしまったことが尾を引いているのだろうか。
だが、孟徳が暗殺されるなんて、夢であっても耐えられない。
「孟徳さんも…こんな感じだったのかな…」
高熱で臥せっている孟徳を見舞ったときに聞いた言葉を思い出す。

『君が刺されたなんて、悪い夢で、起きたら君がおはようございますって言って笑ってくれる… そんな夢を見て、飛び起きて――』

花はぎゅっと目を瞑って、それ以上の思考を止めた。それからほっと息を吐くと、ゆるゆると首を振った。
「…ううん。孟徳さんの方が辛いよね」
孟徳の場合、その夢はただの夢ではなく、実際に起こったことの再現だ。
薬と怪我のせいで朦朧としていた花でさえ、瀕死の花を前にして絶望に染まる孟徳を思い出すと胸が痛くなるのだ。
本人はあれでどれだけの傷を抱えただろう。
その記憶を夢で再現されるだなんて、悪夢以外の何だというのか。

「私も、もっと頑張らなきゃ」
気合を入れて足を踏み出した瞬間、やはり寝不足が祟っているのか、足元が僅かにふらついた。
「っと」
たたらを踏んで、体勢を立て直そうとしたとき、後ろから背中を突き飛ばされた気がした。
「…!」
庭に落ちることはなかったが、欄干に勢いよく手をついて――途端、視界がぐるりと回った。
花は自身の胸元をぎゅっと握りこみ、その場に蹲る。
既に馴染みのものとなってしまった苦痛だが、慣れることはない。
廊下の向こう側からぱたぱたと誰かが近付いてきたのがわかったが、顔を上げる余裕は今の花にはなかった。
「どうなさいました?御気分でも優れないのですか?」
近寄ってきた誰かが背中を擦ってくれる。
「だ、いじょうぶ、です。少し休めば…治ります」
実際、そうやって暫くしゃがみこんでいると徐々に気分の悪さと眩暈が治まってきた。
花はほっとしつつ腰を上げ、親切に声をかけてくれた人物に頭を下げた。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
「そうですか…?お医者様を呼ばれた方が良いのでは?」
女官らしき人物は柳眉を顰めたが、花が笑顔で大丈夫だと繰り返すと、何とか納得したようで、 たおやかな礼とともに去っていった。
花は、遠ざかっていくしゃんと伸びた背中を思わず見送った。
「きれいな人だったなあ…。すらっとしてるし、モデルさんみたい」
おまけに、ひとつひとつの動作が流麗だ。
もし、あれが女官としての正しい動きなら、花が献帝に、お前は女官らしくないと言われてしまうのも仕方ない。
「でも、あんな人いたかな」
ふとそう考え、花は首を傾げた。
この城に来て三月ほどは経っているが、彼女の顔には見覚えがない。
「最近入った人なのかな…。それとも私が知らなかっただけとか?」
うーんと考え込みつつ歩き出そうとした花は、ふと壁の一点に目を留めた。
「え…なに、これ…」
壁の一点が小さく抉られている。
塗りが剥がれて、木の内部の白が顔をのぞかせているので、傷の小ささの割には目に付く。
「朝通ったときは確か、こんなのなかったような気がするんだけど…。私が倒れてぶつかった…わけないし」
花が蹲ったのは壁とは逆側、外に面した、欄干のある側だ。
「それに、この傷、どこかで見たことあるような…――――ううん、まさかね」
花はすぐに頭を振り、気のせいだと結論付けると、今度はしっかりとした足取りで歩き出した。
壁の傷は、以前、弓の練習場で見た、刺さった矢を抜いたあとの傷跡に似ている気がした。







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2010.12.31














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