人 魚 姫  恋 歌  #14






花の日常は暫くの間、極めて平穏に過ぎた。
そんなある日、城の中で文若に会ったのはまったくの偶然だった。
偶然というよりも、元々、孟徳の陣営ではありながらも漢王朝の忠臣であり、 献帝ともそれなりに親交の深い文若が、新参の女官と帝が親しくしているという話を聞き、 文若の解釈によるところの『怪しい女官』を排除しようと乗り込んできたのだ。
「陛下!そのような得体の知れぬ女官など―――」
お待ちくださいと引きとめる女官を引きずる勢いで現われた文若は、そこで『怪しい女官』の顔を見て、 面白いほどかちんと固まった。
花も花で、見つかった!と冷や汗を流しながら固まっていたのだが。

結論から言うと、文若は花のことを孟徳に告げることはなかった。
花や元譲の話を聞き、献帝の意見を聞き、熟考した上でのことだと本人は言っていたが、 実際には九割がた献帝の意見を汲んだせいなのではないかと花は思っている。








その日、献帝の元を退出する文若をたまたま見かけた花は、思わずその後姿を呼び止めていた。
いつもなら、どちらかと言えばなるべく顔を合わせないように気をつけるのだが、 今朝、女官が気になる噂話をしているのを聞いてしまったのだ。
呼ばれて振り返った文若は、特に驚くでもなく「何だ」と花の言葉を待つ。
「あ、文若さん。その……」
「だから、何だと聞いている」
「…いえ、何でもないです。すみません」
目を伏せて話を打ち切った花に、文若は皺の刻まれた眉間に指先をあて、呆れたような溜息を吐いた。
「…丞相のことが聞きたいなら、丞相は昨日から寝込まれている。 まったく、こんなところにまで噂が広がっているとは」
「それで…っ、あの、…大丈夫なんですか?」
弾かれたように顔をあげて問う花に、文若は淡々と告げた。
「医師の見立てでは過労ということだが、少々熱が高いのが難だ。 もっとも、そう悪質な病でもないから、じきに治るだろう」
「そう、ですか」
一連の花の反応を見ていた文若は、はあとこれ見よがしに溜息を吐いた。
ただ彼の場合、当てこすりでもなければ、花に与える効果を狙ったわけでもない。
ただ、本当に呆れたから盛大な溜息を吐いたのだろう。
気まずくなって目を逸らした花に、文若は意外な言葉を放った。
「そんなに気になるのであれば、看病に行けばいいだろう」
「え…」
「元譲殿から、お前が丞相に会わない心積もりをしているという話は聞いた。 だが、ここで自分こそが病にかかりそうな顔をしているぐらいなら様子を見に行けばいい。 熱の上がっている夜中なら、少しぐらいお前が顔を出して世話をしたところで、丞相も夢だと判断されるだろう」
花は逡巡したが、結局文若に「お願いします」と頭を下げた。
「ああ」と頷いた文若は思案気に天井を見上げた後、花に視線を戻した。
「こういった段取りは元譲殿の方が得手だろう。話は通しておくから、あとで元譲殿のところへ行け」
「は、はい!あの、ありがとうございます」
深々と頭を下げた花に、文若は今度は溜息を吐くことなく、 ただ「別にお前のためではない。丞相には早く政務に復帰してもらわねばならんからな」と一息に言って、視線を逸らせた。








文若の指示通り、日が落ちる頃に花が元譲を訪れると、 以前、花が衛兵に止められて小さな騒ぎになったことを懸念してか、元譲は入り口で待ち構えていた。
「え、ずっと待っていてくださったんですか?す…すみません」
「まったくだ。文若め、また俺に厄介ごとを押し付けて…」
「すみません…」
厄介ごとの張本人たる自覚のある花は小さくなった。
看病などただの名目だ。
医術の心得がありもっとよく気が回る、つまりは看病に向いた人材などいくらでもいる。
それをほんの少しの時間とは言え花に任せてくれるのは、孟徳のためというよりは、 孟徳に会いたいという自分の我が儘のためだとしか思えない。
会いたいと口にしたことはないが、元譲や文若の反応を見るに、 恐らく表情や言動の端々にその想いが滲み出てしまっているのだろう。
申し訳ない思いで頭を下げた花に、元譲は慌てたように取り繕った。
「ああ、いや、お前ではない。文句を言うべきは文若だ。あとは、孟徳だな。 体調を崩すなど不摂生がたたったに決まっている。だから無理はするなと言ったんだ」
何だかんだで厄介ごとは元譲に回ってくるらしい。悪意からではなく、むしろその逆で、 彼が面倒見が良いことを皆知っていて、信頼しているからなのだが。
それをよく知っている花は、ぶつぶつと呟く元譲に、変わらないなぁと苦笑した。





今回は、元譲が暫くの間代わりに見張りに立つ事で、その間だけ、孟徳の部屋の前の衛兵たちを人払いすることができた。
「明け方までには戻ってきてくれ。…すまんな。孟徳の看病、頼んだぞ」
元譲が謝るのはお門違いで、お礼も謝罪も、するべきなのはむしろ我が儘をきいてもらったこちらの方だと花は思いつつも、 元譲の言葉に静かに頷いた。


看病と言っても具体的に何をすれば良いのかよくわからなかったが、 花は自分の経験を一所懸命思い出しながら、とりあえず水で冷やした布を、苦しそうに寝入っている孟徳の額に乗せた。
確か頭寒足熱って言うよね。あとは…りんごの摩り下ろしとか…って言っても孟徳さん寝てるからこれは違うか… などと考えながら、すぐに温くなってしまう布を何度か冷やしていると、薄闇の中、小さな声が聞こえた。
「は、な…ちゃん…?」
ハッと顔を見下ろすと、先ほどまで閉じていた目がうっすらと開いていた。
早く部屋を出なければと焦るが、久しぶりに目にした、こちらをまっすぐに見詰めてくる優しい琥珀色に、 花の足はその場に縫いとめられたかのように動かなかった。
孟徳はぼんやりと花を視界に映しながら呟く。
「これは…夢、なのかな?」
「もう、とくさん…」
「夢、だとしたら、良い夢だな」
高熱で苦しいはずの孟徳がふっと微笑した。
「だって、君に会えた」
花は言葉に詰まった。目を瞬かせながら、唾を飲み込むことで喉を湿らせ、 それから声が震えないように細心の注意を払いながら答えた。
「…ええ、夢ですよ」
「夢…どれが…」
「全部夢、夢なんです」
孟徳に答えるよりも寧ろ自分自身へ言い聞かせるかのように花は繰り返した。
孟徳はぼんやりとそれを聞いていたが、目を伏せて小さく頷いた。
「…そうか。君が言うなら…そう、なのかもしれないな。うん、それならいい。全部、夢なら」
息苦しいのか、寝返りを打って、横伏せから仰向きになった孟徳は大きく息を吐いた。
「…君が刺されたなんて、悪い夢で、起きたら君がおはようございますって言って笑ってくれる…そんな夢を見て、 飛び起きて、でもそこに君はいなくて」
上げた片手を額の辺りに置いたのは、窓から入る月光が眩しいためだろうか。
「たまにどれが現実かわからなくなるんだ。…俺がわかりたくないから、かもしれないけど」
額の上に置かれた手のせいで、目元の表情は読めない。
口角だけが僅かに上に引きあがったが、笑っているとは到底思えなかった。
「――っ」
花は嗚咽が漏れないよう、咄嗟に自らの口を両手で塞いだ。
呑みこむのは大変だったが、辛いのは孟徳であって自分ではないと思えば何とか噛み殺すことができた。
「…ごめんなさい。孟徳さん、ごめんなさい」
「どうして、君が謝るの。君に悪いところなんて、ないよ」
「でも、だって、私のせいで孟徳さんがそんなに苦しんで…」
「うん、大丈夫。大丈夫だから、謝らなくていいから、…傍にいてよ」
高熱のせいで、孟徳の言葉も、普段の彼としては有り得ないほどに出鱈目で支離滅裂だ。
けれどその分、強い想いだけがすとんとまっすぐに花の心の中に落ちてきた。
「傍に…いて。ね?」
「……はい」
花は、孟徳の熱い手をぎゅっと握り締めて、祈るように目を閉じた。

頭に浮かんだのは、孟徳が早く良くなるようにという祈りと、そしてもうひとつ、別の決意。











「お前、本気で言っているのか?」
元譲が、信じられないものを見る目で花を見た。
孟徳の部屋から出て、元譲に部屋まで送ってもらっている最中のことだった。
何気ない世間話の中で、花がいなくなって、浮いたままになっている丞相の寵愛を受ける地位を目指し、 一部の女官が躍起になっているという話をまず元譲が花に振った。
元譲としては、孟徳に会わないという花の決意を試し、 あわよくばそこから花の決意を崩して孟徳の元に花を呼び戻そうという腹積もりだったのだろう。
人の心によく配慮する元譲にしては思い切った策だったから、もしかしたら文若と相談していたのかもしれない。
けれど花は、笑みすら浮かべて、それでいいと答えた。
自分からは言い出せなかったけれど、先ほど、寝込んだ孟徳を見舞ったときから思っていた。
丞相という立場上、孟徳には常に大きな重圧がかかっている。
なまじ本人の能力が高くて多少の難題はこなせてしまうし、大変そうなところも見せないからわかりにくいが、 あんな激務についていて、疲れないはずがない。
だから、そんな孟徳には、常に傍に居て、孟徳を癒し、その負担を軽減してくれる人が必要だ。
高熱で苦しそうにしていた孟徳を見て痛切に感じた。
しかし、それは残念ながら自分ではない。それは、ずっと傍にいられる人間、 孟徳を後に残していってしまわない人間、でなくてはならない。

元譲はがりがりと頭を掻いた後、難しい顔で花を見た。
「お前は、本当にそれでいいのか?もしこのまま、…まあ、ないとは思うが、 もし孟徳がお前のことを忘れて、他の女を奥方として側に置き、子を生して幸せに暮らして…それでも構わんと?」
「構いません」
迷いのない声に、元譲の表情が何かを堪えるように、辛そうなものになる。
元が厳つい顔立ちなので、少々情けないともいえる表情になった。
何だかんだで元譲は面倒見が良いし優しい。
それをよく知っている花は、笑みを浮かべて、明るく言った。
「良いんです、元譲さん。孟徳さんの幸せが、今の私の一番の目標なんです。 だから、それを達成できたら、寧ろ喜んじゃいますよ、私」
「しかし、それではお前が…」
私なら大丈夫ですと返そうとした花は、ふと以前孟徳と交わした会話を思い出して、言葉を変えた。
「……人魚姫は、それでも幸せだったんです。私はそう思います」
人魚姫のお話を語ったとき、孟徳が王子を悪し様にこき下ろしていたことを思い出して、意図的ではない笑みが浮かぶ。

花自身は、人魚姫というお話が昔はあまり好きではなかった。
やはり物語はハッピーエンドがいい。
年齢を重ねてあの物語が好きになったかと言えばそういうわけでもないのだが、 好き嫌いはともかくとしても、人魚姫の気持ちが今はとてもよくわかる。

「にん…ぎょ…?」
「人魚姫、です」
「にんぎょひめ……一体、何のことだ?」
突然出てきた、意味のわからない言葉に目を白黒させる元譲に、花は悪戯っぽく笑った。
「秘密です」

自己犠牲など考えるつもりはない。だってこれはただの我が儘だ。
だって、ただもう一度会いたかった。
孟徳のために何かできることをずっと願っていたが、それでも結局、一番強い願いは孟徳ともう一度会うこと。
遠くから一目だけでもと思ったが、幸運なことに夢現の状態とは言え孟徳と話をすることまでできた。
それだけでも、孟徳のいない世界にいたときには考えられなかった幸せだ。
だから、花は思う。
最後まで王子を傍で見続け、思い続けられた人魚姫は幸せだったに違いない。 少なくとも、王子のいない世界に暮らすよりは。
たとえ、王子の隣にいるのが自分でなかったとしても。







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2010.12.29














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