人 魚 姫  恋 歌  #11






朝のうちに献帝のもとに赴いて一刻ほど話をするのが花の日課だったが、その日は少々訪問が遅れてしまった。
廊下を足早に歩いていると、痺れを切らせたらしい献帝の声が風に乗って花の耳にも届いてきた。
「花はまだか」
「陛下。ですから、花殿ならじきにこちらに参られると…ああ、いらっしゃったようですぞ」
「おはようございます。あの、すみません、遅くなって」
「……よい。許す」
花の顔を見て、献帝の相手をしていた官吏はほっと顔を綻ばせ、一方、 無表情のまま、ふいっと顔を逸らせた献帝は許しの言葉を発した。
花はそっぽを向いてしまった献帝に、そっと笑いを噛み殺した。
今上帝とは言え、そもそもそういった階級世界に生きていない花にとって彼は可愛い弟のようなものでしかない。
だから、帝にそんな風にそっぽを向かれても、不興を買ったと青ざめるどころか、 拗ねている小さな弟が可愛くて微笑ましくて仕方がない。
「では、花殿。よろしくお願いいたしますぞ」
白く伸びたあごひげを整えつつ、にこやかに花に声をかけた官吏は、献帝に向かって恭しく礼をした後、席を外した。

「ごめんね、遅くなっちゃって」
「よいと言った」
砕けた言葉で話す花に、献帝は驚きもしなければ嫌悪することもない。
それが彼らの『普通』だった。
最初に会ったときから…厳密に言うと、皇帝の私室に突如現われ、それを部屋の主に発見された時から、 皇帝に向かって弟に接するように気軽に話していた花だったが、 それを見た古参の女官が卒倒するという騒ぎが起こってからは、 第三者がいるところでは言葉遣いや作法に気を配るようになった。
今にして思えば、以前の孟徳に対する態度も同じだった。
それこそ今思えばの話だが、第三者がいるときは孟徳への言葉遣いや態度を改めるべきだった。
それを孟徳が認めるかどうかは別として。

「それで…」
「えっ?」
「今日は何をしていた?」
不意に声をかけられて驚いた花が振り返ると、献帝がまっすぐな目でこちらを見ていた。
「えっと、その…来る途中で会った女官の探し物のお手伝いをしてたの」
「そうか」
それならいいと会話を打ち切った献帝に、花は少しだけ目を逸らせた。
確かにそれも理由の一端だが、もうひとつ理由があった。
そちらは言うつもりのない理由だった。
部屋を出る直前、軽い発作に襲われたなど、子供に言う話ではない。
そこで、ふと、花は気付いた。
「あれ?それならいい、ってどういう意味?」
「病気や怪我をしたのでないならいい」
言い換えた献帝に、花は嬉しそうに笑った。
「心配してくれたの?ありがとう」
出会ったその日はいっさい見せなかった感情を、ほんの僅かだがこうやって出し始めるようになったその変化が嬉しい。
そんなことを考えていた花は、そのあとの献帝の言葉に咄嗟に反応することができなかった。
「今日のお前は、いつもより顔色が悪い」
子供というのは案外よく周りを見ているものだ。
そして、子供のまっすぐな目を受け止めてなお笑顔で誤魔化せるほど花は器用ではない。
「あ…えと…うん、ちょっと、その、おなかが痛くて」
ぎこちなくそう答えると、ふと、『嘘、だね』と溜息混じりの確信めいた声が聞こえた気がして、花は身を強張らせた。
駄目だ。
発作が起こると暫く気弱になって、そうすると決まって彼のことを考えてしまう。
まだ体調が戻っていない。
こんなときに感情が不安定になると、また発作を起こすかもしれない。
だから今思い出しては駄目だ、と警鐘を鳴らす理性とは別に、感情は勝手に彼の像を脳内に投影し始めていた。
きっと彼なら見透かすように暫く花を見詰めた後、小さな嘘にしょうがないなと溜息を吐いて、 強引に彼女を寝室へと連れて行くだろう。
俺がついてるから暫く寝ててと枕元で手を握って、心配そうな目でじっとこちらを―――

「―――っ!」
どくんと心臓が嫌な音を立てた。

『嘘だろう?こんなのは――』
咄嗟に口元を覆う。
息苦しい。
けれどそんな苦しさよりも、もっと。
『お願いだから、目を開けて――』
花はたまらず両耳を手で覆った。
けれど、悲痛な幻聴は、耳を塞いだところで途切れることはない。
膝ががくがくと震えた。
「ぅ……あ、ああ……っ」
耳を塞いだまま、何度も大きく首を横に振った花は、糸の切れた人形のようにがくりと膝をついた。
「花…?どうしたのじゃ?……誰か!誰かおらぬか!!」
感情を露にしない子供の、悲鳴のような声を遠くに聞きつつ、花は白んで揺れる視界に、 ここにはいないただ一人の姿を探した。
「ごめ…なさ……孟、とくさ…」
倒れる間際にそう呟いたのは、無意識のことだった。







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2010.12.26














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