「すみません。遅くなってしまって…」
花は深く腰を折って謝罪してから、荷物を手渡した。
幸いにも、頼まれた届け物はさほど急ぎのものではなかったようで、届け先の相手も問題ないと笑って許してくれた。
けれど、いつもは時刻に正確なのにどうしたのと聞かれて、花は笑ってお茶を濁した。
言える訳がない。暗殺計画をたまたま耳にして、それを止めるべく奔走していたなど。
しかもその暗殺の対象者であり、その人のために自分が必死になったその相手が、この国の丞相だなどと。
もちろん必死になったのは彼が丞相だからではないが。
恋しい、恋しい相手。
一目でいいから彼の姿をもう一度見たいと、ただそれだけのために、またこんなところまで来てしまった。
けれども、会うことはできない相手。
花はそっと溜息を吐いた。
本当は、孟徳だけでなく、元譲にも会うつもりはなかった。彼は孟徳と近しすぎるから。
暗殺計画なんてものを耳にしなければ今も会うことはなかっただろう。
献帝の下で日々を過ごしながら、同じ空の下にいる孟徳を想い、その噂話に聞き耳を立てる毎日を送っていたに違いない。
実際には、自分だけではどうしようもない事情のせいで元譲に会うことになったが。
久々に会った元譲は以前と変わることなく、何だかんだ言っても親切で面倒見の良い男のままで、
花の希望を汲み、せめて寝ている間に一目でもと孟徳と会える時間を提案してくれた。
断るべきだったが、胸に咲き続ける想いが、提案を断らせなかった。
ただ、花はまだ元譲に全てを話してはいない。
半年後にはもうこの世界にいないと伝えたのは嘘ではない。
けれども元譲が推測した、元の世界に帰るからという理由は正確ではない。
それでも、大きく捉えればそういうことになるかもしれないと自分に言い聞かせて、
多少の罪悪感を持ちながらも肯定を返したのは、ではどんな理由だと聞き返されることが怖かったからだ。
元譲に伝えるのは、半年後には『この世界』から自分がいなくなっているという事実だけでよかった。
「…っ、ふ」
花は不意に咳き込みかけて、口元を手で覆った。
暫くその場にじっと蹲るが、身体にそれ以上の変調がないことを悟ると、ほっと息を吐いて立ち上がった。
時間通り指定場所に向かった花は、その後、ここで夜まで適当に時間を潰せと空き室に案内された。
「それから、孟徳と会った後も、朝までここで過ごしてから帰るといい」
「え、でも」
慌てて部屋の中を見回した花は、寝台が整えられ、飲み物や軽い食べ物まで用意されていることに気付いた。
「そ、そこまでしてもらうわけには…」
孟徳の顔を見たらすぐに帰ると主張した花を、元譲が一喝する。
「何を言ってるんだ!若い娘がそんな時間に出歩くもんじゃない」
お父さんみたい、という感想は静かに飲み込む。花にとっては悪い意味ではなく、
むしろほんわりとした温かい感情のままにそう思ったのだが、
孟徳とそう歳の変わらない彼にその台詞は失礼だろうと考えたからだ。
だから、花はただ丁寧に礼を告げて、心遣いを受け取った。
待ちわびているものがあるとき、時間が経つのは大抵遅く感じるものだが、それでもやがてその時間はやってきた。
夜更けに、「待たせたな」と現われた元譲に伴われ、花は孟徳の部屋へと向かう。
「俺に追加の酒を持ってくるよう頼まれたと言え。さっき孟徳の様子を見に行った後、衛兵にそれとなく言っておいた」
そう言って酒瓶を渡された花は、目を瞬かせた。
「元譲さんは行かないんですか?」
「何度も俺が行けば、何も知らない衛兵たちに不審感を与えるからな」
「…そうですね」
「だが、万が一があっては困る。俺はこの辺りで待っているから、何かあればすぐに知らせに来い」
「わかりました。…ありがとうございます。元譲さん」
花は元譲に頭を下げると、そこから一人で廊下を進んだ。
道に迷う心配はしていなかったが、それでも何度か角を曲がって孟徳の部屋の扉が見えたときには、
ほっと胸を撫で下ろした。
元譲の言った通り衛兵にはきっちり話が通っているようで、
「元譲様に、丞相のお酒の追加を持ってくるよう仰せつかりました」と告げると、皆あっさりと花を通してくれた。
いざ扉の前に立つと、少し足が震えた。
思わずごくりと唾を飲み込む。
先ほど様子を見に行ってくれたらしい元譲は、孟徳はもう寝入っているから大丈夫だと言っていたが、
薬の効き目が弱くてもう起きていたらどうしようか。
いや、それよりも、扉一枚隔てた向こうに孟徳がいると思うと、すぐにでも飛び込みたいと逸る気持ちと、
逆にこのまま扉を開けずに帰ってしまいたいという気持ちが花の中で入り乱れた。
けれど迷ったのはほんの数秒。
緊張しつつ、それでも衛兵に不審がられないよう、花は平静を装って室内に入った。
孟徳は暗い室内で、寝台の上に倒れこむような体勢で、静かに寝息を立てていた。
花はそっと忍び足で寝台に近付く。
久しぶりに見る孟徳の顔。自分の中ではもう半年ぶりぐらいになる。
その間、忘れることなく頭の中に居座り続けた面影だが、やはり記憶と現実とでは違う。
そういえば、寝顔を見るのはもしかして初めてではないだろうか、と花は記憶を辿った。
起きていると、有能だったり優しかったり茶目っ気があったりほんの少し意地悪だったりと様々に色を変える顔は、
こうやって感情を乗せずに眠っていると、とても端整だ。
花は、どきどきと鳴り続ける自らの心臓に、うるさいと苦情を申し立てた。
この心音で孟徳が起きてしまったらどうしようと、有り得ないことを心配しつつ、
ふわふわとした髪の毛にそっと手を伸ばす。
触れた指先の感触を、懐かしいと思った瞬間、喉の奥と目の奥から熱いものがこみ上げた。
それを堪えるために僅かに引いた手を、恐る恐る額へと伸ばすと思ったより冷たくて、少しだけ冷静になった。
繋いだ手や抱き締められた腕の温かさしか知らないから、ほんのりとした冷たさは不安を誘う。
自分の熱が移ればよいと額に手を置いた花は、暫くすると、また髪を梳くように頭をそっと撫でた。
ずっとこうしていられたらいいと願うのは愚かなことだとわかってはいるが、そう願わずにはいられない。
花はしゃくり上げないように注意しつつ、暫くの間、孟徳の髪を静かに撫で続けた。
topへ← →次へ
2010.12.19
|