人 魚 姫  恋 歌  #8






夏侯元譲は、本日もう何度目になるかわからない溜息を吐いた。
『あの事件』からひと月近くが過ぎていた。
もう、と捉えるか、まだ、と捉えるかは難しいところだ。
ともかく、暗殺未遂後、三日ほどで政務に復帰した孟徳は、それ以来丞相としての顔を崩さず、仕事に没頭している。
さすが丞相は、殺されかけても眉一つ動かさないなどと畏怖を込めて囁かれているが、 元譲の目には、孟徳が無理をしているようにしか見えない。
けれども孟徳自身が、無理を無理と認めない。
そのくせ先ほども、花の話を持ち出そうとしただけであの有様だ。
どうにかしてやりたいが、今の孟徳には自分の言葉は届かないであろうことを元譲は理解していた。
そもそも、手負いの獣を下手につつくと碌な方向に転がらない。
元譲はさらに、深々と溜息を吐いた。
実はこの城で一番苦労性なのは、常に眉間に皺を作っている文若よりも寧ろこの元譲であるというのは、 彼らと直接関わる機会がある者なら誰もが知るところだ。
とは言え、文若も、そろそろ胃痛で倒れるのではないかと噂されるほどなので、大差はないかもしれない。

ふと元譲は騒ぎに気付いて顔を上げた。
視線の先には何やら言い争っている気配がある。
「まったく、どうしてこう次から次へと…」
ぼやきたくもなるが、そうも言っていられない。元譲は足早にそちらに向かった。
「おい、どうした」
騒ぎの中心から少し離れたところで様子を見守っている兵士の一人に声をかける。
「元譲様…!」
元譲の顔を確認した兵士は、明らかにほっとしたように表情を緩めた。
「実は怪しい女官が、元譲様か文若様へのお取次ぎを願っておりまして…」
「女官?」
元譲は片眉を上げる。
こんなところまで来るとは余程急ぎの用事なのだろうが、仮にも丞相がいる場所だ。 一介の女官が何の許可もなく突然やってきても、おいそれと通されるはずがない。この先は宴席の広間などではない。
そもそも「元譲か文若」と名指しで女官に訪ねられる覚えは、少なくとも元譲にはない。
訝しげに目を凝らした元譲の目に、兵士たちの間からちらりと見え隠れする、女官らしき人物の姿が見えた。
「あれか」
怪しい、と兵士が評した理由は、その人物が頭に薄布を被って顔を隠しているからだろう。
何か手荷物を持っているのは使いの者であれば不思議ではないが、その中身が武器や危険物でないという保証はない。
これは確かに怪しい。
誰かに送り込まれた暗殺者や間者として即刻捕らえられてもおかしくない。

「まぁ、こんな正面から堂々と来る時点で、それはないだろうがな…」
やれやれと口をへの字に曲げた元譲が、ここは兵士に任せるか、それともやはり自分が行くべきかと考えていたとき、 若い女の声が聞こえた。
「…元譲さん…?」
澄んだ声が、確かめるように一度呟いた。そして次には喜色に溢れて叫んだ。
「元譲さん!お願いします、話を聞いてください!時間がないんです!」
声の発信源は騒ぎの中心部。つまりは怪しい女官の声だということになる。けれどもそんなことはどうでもよかった。
元譲は目を見張る。聞き覚えのある、そして今はもう聞くはずのない声だったのだ。
「通してください!…元譲さん!」
「あ、おいこら!待て!」
兵士をかきわけてこちらに来ようとした彼女を、慌てて衛兵らが取り押さえる。
必死にこちらに呼びかける彼女の、顔を隠す薄布が外れ、その顔が顕わになる。
「元譲さん!!」
「まさか…………花、か?」
呆然とその顔を見た元譲は、信じられんと首を振りながら呟いた。
小さな呟きだったので、衛兵に声は届かなかったが、首を振った元譲を見て早合点した衛兵が慌てて彼女を引き戻す。
「ええい!元譲様に、なんと無礼な!下がれ、女!」
「元譲様。この女は我々にお任せください」
兵士たちの声に我に帰った元譲は、
「ま…待て!」
すぐに彼女を引っ立てようとしている衛兵たちに制止をかけた。
「は…。元譲様?」
ぽかんとこちらを見る衛兵たちに何と言ったものか。
いや、それより元譲自身、頭の中の整理が追いついていない状態だったが、何度も唾を飲み込み、
「いや…その女は俺の知り合いだ。話を聞くから通せ」
やっと、それだけ言うことができた。






人目を避け、再び薄布で顔を隠した花を連れ、元譲は自室にやって来た。
「まず…お前、本当に花か?」
「はい。あ、えっと、ちょっと髪伸びたので…以前とだいぶ違うように見えますか?」
「……いや、そうでもない」
というか、そういうことではなくてだな、と元譲は脱力した。忘れていたが、 この少女にはこういうところがあったと改めて思い出す。
とは言え、彼女が本気でそう思っているのがわかるので、怒ることもできない。
孟徳あたりが言ったなら間違いなく確信犯だが、彼女の場合は天然だ。
「大体、少し髪が伸びたぐらいでわからなくなるはずが……うん?髪?」
元譲は違和感に気付いて眉を顰めた。
肩に付く程度だったはずの彼女の髪は、背にかかるほどになっている。ひと月で伸びる長さではない。
「どういうことだ?」
「あれからこちらではひと月ぐらいなんですよね。でも私の中では半年ほど経ってるんです」
呆気に取られた元譲は、言葉もなく花を見る。 しかし、言われてみれば、ほんの僅かではあるが顔も大人びているような気もしなくは…と 元譲は顎に手をやったまま首を捻った。
「一体何がどうなってんだ…」
ぼやく元譲に、花は困ったように笑った。
「あの後、一度、私は元の世界に戻ったんです。向こうの世界は医術がとても進歩していて、私は何とか助かりました。 それで、またここに来ることができたんです」
「そ、そうか…。ともかく、無事でよかった。それでお前、孟徳には…」

「元譲さん」 元譲の話を遮るように、花が名を呼んだ。
元譲の知る限り、彼女にしては珍しい行動だ。
彼女は普段、人の話を遮るような真似はまずしない。
「何だ?」
「孟徳さんの暗殺計画が進んでいます。予定では明日。あまり時間がありません。 …偶然、彼らの話を聞いてしまったんです。私はそれを知らせに来ました」
「何だと?…確かか」
花が元譲をまっすぐに見上げながら、ゆっくりと頷く。
そんな花の様子をじっと見た元譲は「よし」と頷いた。
「詳しく話してくれ。すぐに何とかする」
花の顔が安堵に緩んだが、すぐに表情を引き締めると、彼女は暗殺計画について彼女が知っていることを語り始めた。







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2010.12.12














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