人 魚 姫  恋 歌  #6






空は曇り、季節柄まだ寂しい風情の中庭にさらに寂寥感を上乗せしていた。
もう少ししたら色鮮やかな花が庭を彩るのだろうが、まだその時期ではない。
孟徳は視線を窓の外に逃がしながら小さく溜息を吐いた。
曇った外よりも、灯りを足した室内の方が明るくはあったが、 そこに漂う空気は明るいとは到底形容しがたいものだった。
孟徳の前には、文若と、そして数人の武将が居並んでいる。
「…公の爵位と九錫、ね。またその話か」
視線は窓の外に向けたまま、投げ出すように孟徳は言った。
気のない様子に、武将の一人が拳を握って詰め寄る。
「丞相!我々はあなた様にこそお仕えしているのです!どうかお聞き届けくだされ!」
「そうです!我らはどこまでもあなた様に付き従いたく…」
孟徳は言い募る彼らを無感動に見ただけだったが、代わりに文若が語気も強くその間に割って入った。
「皆様方、お待ちを!…丞相、それは臣下としてあってはならぬことです!」
「文若殿…丞相は今、我らと話しておられる!弁えられよ!」
武将らと文若の間に火花が散る。双方、引く気配はない。
まったく、次々と問題が起こる、と孟徳は特に感慨もなく思った。
丞相暗殺未遂事件の直接の引き金となったこの話題は、さすがに暫く立ち消えになっていたのだが、 そろそろほとぼりがさめたというところだろうか。
近頃、それらしきことを仄めかす者がちらほら出てきてはいたが、ついに孟徳に直接訴えかけてくるほどになった。
権力は、あれば便利だし、いくらあっても困らないものという認識でこれまで来たが、 正直なところ、今の孟徳にはそれもどうでもいいことだった。
権力などいくら増えたところで、一番欲しい唯一のものはもう手に入らない。
それなのに、なぜ自分がこの位置に立っていなければならないのか。時々わからなくなる時がある。
(ここにいるのは、この国を守るため、か?)
(守りたい人間など、もういないのに)
丞相としてはともかく、曹孟徳一個人の希望など、既に存在していない。
何も要らない。欲しいものはあのときに全て失った。
孟徳は暗い目で、唇を微笑の形に歪めた。
権力も、それを持つことで起こる争いも、もうどうでもいい。
孟徳は、眼前で争う臣下たちに目を向けた。
「お前たちの言い分はわかった。考えておこう。今は下がれ」
「は!」
孟徳の言葉を前向きに検討するという意味に捉えたらしく、武将らが満足げに足音高く部屋を出ていった。
けれど文若だけはすぐには退室をせず、無言のまま孟徳の前に立っていた。
「何をしている、文若。お前も下がれ」
「…丞相、一度…」
何かを言いかけた文若は、考え込むような素振りで言葉を続けることに躊躇いを見せたが、 思いなおしたようにその先を繋げた。
「…一度、陛下と忌憚なくお話されることをお勧めいたします」
「献帝と?何を馬鹿な」
思いも寄らぬ文若の提案を、孟徳は一笑に付した。
献帝などただの子供だ。前皇帝の子として生まれただけの。皇帝とはいえ、 何も知らず、自分では何も考えない、まさに人形だ。
少なくとも、孟徳が保護という名目で、その身柄を預かったときからずっとそうだった。
そんな相手と何を話せというのか。
「時間の無駄だ。俺もそれほど暇じゃない」
しかし文若は根気強く繰り返す。
「いえ、献帝は今、この国のことをよく勉強しておられます」
「あの人形のような献帝が?」
鼻で笑い飛ばそうとした孟徳だったが、文若の極めて真摯な表情に、笑いを引っ込めた。
「…以前、俺が謁見したときはそんな風でもなかったがな」
「日々、成長しておられるのです」
まっすぐに言い切る文若の声に嘘は感じられない。
孟徳は溜息を吐いた。
「お前がそこまで言うなら一度席を設けてやろう。とは言え、あちらがそれを拒否しなければ、だがな」
「丞相…ありがとうございます」
深々と礼をした文若を一瞥すると、孟徳は再び仕事に戻った。



献帝に謁見する機会は、孟徳にとっては予想外に早く訪れた。
と言っても、実際には、もし孟徳が会おうと思えばいつでも会うことは可能だ。
それほどに、今の漢王朝での孟徳の権力は強い。
けれど、今回は孟徳側からはその機会を設ける提案をしただけだった。
あちら側の働きかけがなければ実現には到底至らないほどのささやかで消極的な提案だった。
もし本当にあの皇帝が政治の勉強をしているというなら、この機会は何としてでも逃さないだろうし、 逆に謁見が成らなかった場合は、あちらにそれほどの意志も気概もないということだ。
それなら会う意味などない。そう思ったからだった。
それだけに、早々にあちらが段取りを組んだと知ったときには少し驚いた。
同時に、意地悪く思う。孟徳に爵位を受けさせぬよう話をしろと、側近があの子供に説きでもしたか、と。
文若の話は嘘ではなかったかもしれないが、少しぐらい周りから知識を詰め込まれたところで、 それほど何かが変わるとも思えない。
適当に話しておけば文若も納得するだろう、という程度に考えて、孟徳は献帝の前に立った。

「曹孟徳、御前に参じました」
「よく来た。一度、直接話をしたいと思っていた」
頭を垂れて応えながら、孟徳は心の中に湧き上がった驚きを認めないわけにはいかなかった。
意志を感じさせるはっきりとした言葉。
何よりも、目が違う。
光の差し込まない無感情な瞳はどこへ消えたのか。
しっかりと焦点をこちらに合わせて来るその目は、決して人形のものなどではない。確かな生気があった。
「今、お前に公の爵位と九錫を与えるという話が出ておるじゃろう。どうするつもりか、直接お前の口から聞きたかった」
「…まだ何も決まっているわけではありません。ですが、陛下はもちろん反対でしょう」
暗に、意見を聞くなどとまどろっこしいことを言うぐらいなら、 反対だからやめろとこの場で命令してみせろという挑発を含ませる。
けれど献帝は考えるように少し首を傾けただけだった。
「朕の周りの者たちは確かに反対しておる。帝位簒奪だと。じゃが…朕は、それならそれで良いとも思っておる」
まったくもって予想外の返答だった。
一体何を言うつもりだ、と真意を量りかねた孟徳は、目を細めて献帝を凝視した。
「…ただ、今の状態で公の爵位など持てば、劉玄徳や孫仲謀を始め、各地の将が黙ってはおらん。 そうすればまた世が荒れるじゃろう。もしお前が爵位を得るつもりなら、それをどう収めるつもりなのか聞きたかった」
「…陛下は……」
皇帝たる自分よりも孟徳が権力を握ることを否定しない言葉に、さすがに孟徳も何と返してよいものか、一瞬言い淀んだ。
「…いえ、失礼ながら、陛下は『今の状態』を快く思ってはいらっしゃらないと思っておりましたが」
傀儡の状態であることについて、慎重に言葉を選んで問う。
献帝の問いに対する答えにはなっていなかったが、孟徳にとっては根本的な問題はそちらだった。
どういうつもりでの発言なのかによって、献帝の先ほどの質問の意図も、孟徳が答えるべき内容も変わる。
孟徳の問いに、ゆったりとした口調ではあったがすぐに返答があった。
「確かに、お前が朕を操り人形にしていると思ったこともある。じゃが…お前がそうしておるのは、 朕に力が足りぬからじゃろう。朕はまだ民のことも政のことも何も知らぬゆえ」
孟徳は絶句した。
返しに間がないということは、思ったことをそのまま、それこそ忌憚なく話しているということだ。
まさかこんな問いを事前に想定して、回答を準備していたとは思えない。
つまりは、彼自身が考えて答えを出したということ。
戸惑いと驚きが思わず表情に出ていたのだろう。
「何をそのように驚いた顔をしておる、孟徳」
その声にどこか楽しげな響きが宿っていると思ったのは、気のせいではない。
文若の言うとおり、確かに成長をしている。それもすごい速度で。
どんな切欠があったのかはわからないが、以前とはまるで別人だ。
「…いえ。ただ…そうですね、陛下は私を嫌ってらっしゃると思っていたので、少し驚きました」
「………なるほどな」
なぜか、何かに感心したように頷いた献帝に、孟徳の眉が訝しげに寄せられた。
「何か?」
「朕も今の今まで疑っておったのだが、お前は正直な人間だという話を聞いたのだ。 嘘を吐かぬと。それを思い出しておった」
孟徳は押し黙った。一般に抱かれているイメージとは掛け離れているだろうが、 確かに孟徳は基本的には嘘は吐かない。
今の言葉も、今上帝に対するには不敬であったかもしれないし、少し意地の悪い含みを持たせた自覚もあったが、 紛れもなく孟徳の本音でもあった。
けれどそれに気付く者がそうそういるとは思っていなかった。
「その者からは、他にも沢山のことを教わった。自分で考えて自分で動くことの重要さを。 それから、思ったことを言葉で伝えることがどれだけ大事なのかをな」
そう続けた献帝は、懐から大切に取り出した鈴飾りをちりんと揺らした。
何気なく献帝の動きを目で追っていた孟徳は、それを目にした瞬間、はっきりと顔を強張らせた。
「陛下。それを、どこで…」
自然と声も固くなる。その鈴飾りは、孟徳にとって絶対に見過ごせないものだった。
目にしたことのある飾り。
『あの子』が、元の世界のものだといって懐かしげに見ていたもの。
孟徳の記憶では、今目の前にあるのは、その鈴飾りと寸分違わない物だ。
彼女がどこかで落としたものを誰かが拾ったのか。
だとすると、例えば小さな飾り一つでも、彼女の持っていた物を他の誰かが手にしているということは許しがたい。
けれど。そういう意味での狭量な怒りではなく、このとき孟徳は、もっと肌がちりちりするような、 妙な予感に襲われていた。
意識するよりも早くに何らかの予兆を無意識のうちに脳が感じとったのか、やたらと気が急く。
そんな孟徳の気を知ってか知らずか、献帝はすぐには答えず、暫し無言でじっと孟徳を見た。
それから、徐に口を開いた。
「もらったのじゃ。三月ほど前に現われた女官に」
「女官…」
三月ほど前というと、忌まわしいあの事件から暫く経った後だ。
特に意図せずともするすると紐解かれる記憶は、そういえば未遂とも言えないほどの、 自分の暗殺計画が持ち上がった頃だったかと当時の出来事を呼び出してくる。
それにしても、女官とは。
「その女官とは、どういった者ですか」
鋭く見据えてくる孟徳をまっすぐに見返した献帝は、一拍置くようにこくりと頷いた後、はっきりと言った。
「ここではないどこかから来た、不思議な少女だ。名を――花と言う」
孟徳はゆっくりと息を呑んだ。









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2010.12.05














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