その夜は、空には雲ひとつなく、綺麗な満月が白い光を地上に満遍なく注いでいた。
月見酒にはもってこいの夜だったが、生憎と今の孟徳には、空に浮かぶ麗しい淑女の姿は何の慰めにもならなかった。
窓に背を預け、杯になみなみと酒を注ぐ。
空になった酒瓶が床に転がっているが、気にする様子は欠片もない。
「は…」
孟徳は残っていた酒を一気に煽ると、自嘲気味に笑った。
酒の力を借りても、ちっとも酔えない。
ただ、意識を失ったように眠れるということだけが利点で、けれどそうでなければ眠るることすらままならない。
まんじりともしないまま夜明けをむかえるか、あるいは悪夢を見て飛び起きることを繰り返すか。
それぐらいなら浴びるように酒を飲んで夢を見ないほどに深く眠ってしまう方が楽だった。
そんな夜をあれ以来ずっと過ごしてきた。
けれど、今日は特に酷い。
昼間、元譲が彼女のことを口にしかけた。
抑えてきた想いは、たったそれだけのことで容易く引き摺り出される。
意図的に思い出さないようにしている記憶は、ほんのちょっとした切欠でも表面に現われる。
そうなったらもうどうしようもない。
孟徳は緩慢な動きで懐から小さな袋を取り出した。
小さな袋の中身は、あの事件のときに手に入れた『薬』だ。
それを月光にかざし見ていたが、やがて首を振ると、その薬を元通り袋の中に収めた。
彼女はあのとき、自分はこのまま元の世界に戻ると告げてきた。
孟徳には、その言葉が真実ではないとわかった。
孟徳を安心させるためだけに彼女が吐いた嘘。
けれどそれは、彼女自身が『確実に元の世界に帰れるという確証を持っているわけではなかった』
ということがわかっただけだ。
実際のところどうなったのかは誰にもわからない。
彼女が死んだという証拠はどこにもない。同様に、生きて元の世界に戻ったのだという確証も。
致命傷ともいえるほどの深い傷を負った彼女が、光に包まれて消えた。
客観的に見れば、確実なのはそれだけだった。
希望は薄いと、事実を聞いたものなら誰でも思うだろう。
けれど、「生きて幸せに」というのが孟徳の聞いた彼女の最後の言葉だ。
意識が途切れる寸前にかろうじて耳に拾ったその声は今も耳について離れない。
それが彼女の願いだから、死ぬこともできない。
「君は…言葉ひとつで俺を縛りつけるんだ」
しかも、もしかしたら彼女はまだ生きているかもしれない。その微かな希望が孟徳を苛む。
いっそ彼女が逝くところを見たのなら、生きながら狂うこともできるのに。
今も気持ちはあのときのまま。宙ぶらりんだ。
孟徳は杯を放り出して、拳を力なく壁に打ちつけた。乾いた音は空しさを増すだけだった。
「君は…ひどいよ、花ちゃん」
孟徳はそのまま壁伝いに寝台へとずるずると崩れ落ち、意識を保つことを放棄した。
風がそっと頬を撫でた。酔って窓を開け放ったままだっただろうか。
ぼんやりとそう思った瞬間、ふわりと、額に柔らかくて温かいものが触れた気がした。
酒のせいで熱く火照っていた顔は既に冷えて、むしろ冷たくなっていたらしい。
それだけに、触れたものがとても心地良く感じられた。
柔らかく額に当てられたそれは、そっと離れると今度は優しく髪を梳いた。
いや、頭を撫でたのかもしれない。それこそ、母親が幼子にするようにひどく優しい仕草で。
柔らかくて温かいものを与えてくるその正体を知りたくて目を開けようとするが、
それを超える勢いで、急激な睡魔は再び孟徳の意識を真っ白に覆った。
気付けば、月光ではなく陽光が部屋を燦々と照らし出していた。
「夢…か?」
肘をついて身体を起こす。やはり飲みすぎたか、少し身体はだるいが、政務に支障を来たすほどではない。
むしろ…。
乱れた前髪をかきあげながら、孟徳は気付いた。
起き抜けに頭痛を感じなかったのは久々だった。
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2010.11.28
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