「駄目だな。この徴税案ではまず地方が納得しない。やり直せ。
西の動向については引き続き警戒を怠るな。それから…」
次々と文官に指示を飛ばす孟徳の様子を見ていた元譲は、一通り捌けた頃を見計らって声をかけた。
「孟徳」
「元譲か。お前が来るということは軍で何か問題でも起きたか」
絶対的な王者の風格を漂わせた丞相としての孟徳が、元譲をちらりと一瞥した。
「いや、そういうわけではないんだが………大丈夫か?」
「何がだ」
「何って、孟徳、お前…」
書簡に目を通しながら答える孟徳の声に揺らぎは認められない。
けれどそれが元譲にさらに不安を抱かせる。
あれ以降も、いつも通り政務を取り仕切っている孟徳。まさに、いつも通りに。
そんな筈がないのに。
「元譲。俺が大丈夫でないように見えるとでも?仕事は滞っているか?政務に問題が出ているか?」
「いや、そういうわけじゃない。お前はいつも通り仕事をこなしている。だが…」
元譲はそこで少し口篭ったが、思い切ったように続きを口にした。
「だが孟徳、お前、あれ以来あの子のことを」
「元譲」
久しく耳にしていないほどに冷えた声に、元譲は口を閉ざした。
いつの間にか書簡から顔を上げた孟徳が、声よりもさらに冷たい眼差しで元譲を刺すように見ていた。
「それ以上、口にすることは許さん」
「…わかった。すまなかった」
元譲は腰を折ると、そのまま退室した。
孟徳の前を辞した元譲は、回廊を歩きながら、先ほど遮られた言葉を口に出した。
「…あれ以来、あの子のことを一言も口にしてないってのがどれほど不自然か、わからないはずがないだろうに」
あの忌まわしい事件からもう幾日もの日々が過ぎ、既に次の季節が巡り来ようとしていた。
彼女が消えた次の朝から三日ほど自室に引き篭もっていた孟徳だったが、
四日目に皆の前に顔を見せたときには、既に冷静な丞相の顔を取り戻していた。
政務に復帰した孟徳がまず行ったのは、丞相たる孟徳の暗殺を試みた者たちの処罰だった。
実行犯を生きたまま野犬に食わせるという残虐さは、城内でも目を覆う者が多いほどだったが、
効果は抜群で、反孟徳を掲げる派閥は急激に力を失った。
けれど、そういった効果を見込んでのパフォーマンスなどではなかったことを元譲だけが知っていた。
捕らえた実行犯の処遇を孟徳に問うたのは元譲だった。
その瞬間、酷く凍てついた目で迷いもせず「生きたまま野犬に食わせろ」と言ったときの孟徳の表情は、
過去十年を遡ってみても最悪と言えるものだった。
ここまで荒んだ表情は、孟徳が死にかけ、あの呪いじみた誓いを立てたとき以来だ。
寧ろあのときはまだ怒りが勝っている分ましだった。
もちろん今回とて、怒りや悲しみも計り知れないほどに深いはずだ。
だが、それを上回る絶望と虚無を、元譲は孟徳の目に見出していた。
一方、裏で計画を立てた黒幕については、捕らえて投獄したものの、まだ処刑などの具体的な処罰は下されていない。
反孟徳派の反乱を防ぐためだとか、主犯の男の、長年漢王朝に仕えてきたという立場を配慮したとか
政治的な解釈をしている者がほとんどで、それすら、非道ではあっても、頭が切れる冷静沈着な丞相というイメージを強め、
結果的に孟徳の支持者を増やした。
孟徳派の中でも急進的な派閥に属する武官などは、逆に厳重な処罰をと訴えてくるほどだ。
無論、これも孟徳の本意はそんなところにはない。
否、あるいはその効果も見込んだのかもしれないが、主な理由は間違いなく私怨だろうと元譲だけは理解している。
すぐに楽にしてやる義理はないとうっすら微笑った孟徳を実際に目にしたのは元譲だけだからだ。
あのときは元譲ですら戦慄を覚えたし、けれど同時に孟徳の怒りの原因も知っているだけに納得もした。
孟徳の代わりに刺されたと、城内では悲劇の女主人公として美談をもって語られている彼女は、
けれど城内での認識の通り『丞相のお気に入りの、妾の一人』などではなかった。
だからこそ元譲は孟徳が壊れる可能性をも覚悟していた。
けれど、それ以後の孟徳は、不自然さをきれいに隠し、丞相としての日常に戻った。
忙しいのは変わらずで、ただ、少し前までのように仕事をふらりと抜け出すことがなくなったという違いはあるが、
忙しくてその暇もないという解釈もできる。孟徳の絶望を知らなければという但し書き付きで。
孟徳の様子に不自然さがないことが、真実を知る者から見れば、何よりも奇異に映る。
人を信じられないはずの孟徳があそこまで心を傾けた花、彼女を失って、普通でいられるはずがない。
「まぁ、今のところ、あいつの異常さに気付いてるのは俺と文若ぐらいだろうな…」
何とかしたいが、どうしようもない。
欠けた人間の穴を埋めることなど、本当の意味では不可能だ。
それが、単に能力の問題ではなく、その人自身に価値を見出している場合は尚更。
大きく溜息を吐き出した元譲は、そこでふと入り口の方がやけに騒がしいことに気付いた。
孟徳の片腕として相当の地位についている元譲だったが、
どういうわけだか、城内で何か揉め事があった場合に、仲裁として間に立つ回数は城内の誰よりも多い。
決してそういう管轄なわけではないが、面倒見の良さと、臣下からの信頼の厚さゆえだろう。
「まったく、孟徳のことだけでも大変だっていうのに…」
呻いた元譲だったが、やはり問題ならば放っておくわけにもいかないと、頭を切り替えてそちらに足を向けた。
元譲の去った扉を暫く睨みつけるように見ていた孟徳は、元譲の気配が完全に遠のいた頃、ふっと全身の力を抜いた。
力なく座り込む。
「あの子のことを口にすらしないことが、おかしいと、言いたいんだろう?元譲」
長い前髪の奥から、冷めた目がぼんやりと中空を漂った。
確かに、あの日以来、花のことは口に出していない。
それどころか、思い出すことを自らに禁じている。
それでも。
「…忘れたわけじゃない」
考えないように努力したところで、彼女のことを、何一つ忘れることなどできない。
唐突に行き場を奪われた想いは募るばかりで、朝に夕にと孟徳を責め苛む。
夜は一番酷くて、あの子はどこだ、あの子を返せと好き勝手に泣き喚く。
「…刺されるのは、俺でよかったのに」
ふと、彼女の教えてくれた物語の一つを思い出した。
「…君は、俺を刺せばよかったんだ。そうすれば泡になることなんてなかったのに」
あの王子は、健気な人魚の少女の犠牲を知らずに幸せに暮らしたかもしれないが、自分は違う。
彼女の犠牲で命拾いして、どうして幸せになんてなれるだろう。
くっと笑い、目元を手で覆った。
てのひらが瞼を覆う直前に、必然的に目に入った昔の火傷の痕が、
孟徳にさらに苦々しさをもたらした。
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2010.11.23
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