それは、花が孟徳軍に来ていくらか経った頃のことだった。
庭の東屋で、お茶を前にいつものように花が話す昔話を、向かいに腰掛けた孟徳が耳を澄ませて聞いていた。
話を聞きながら、孟徳の視線はじっと彼女に注がれ、彼女の視線は一心に手元の本へと向かっている。
本の内容が昔話ではないということは、既に彼女自身からも聞いている。
しかし単純に彼女の話す物語も気に入っていた孟徳は、彼女自身の話を聞く合間に、時折物語もせがんでいた。
もう本を『読む振りをする』必要はないのに、なぜ彼女がそれまでのように本を開いているかというと、
彼女曰く、その方が気分が乗るんです、ということらしい。
その方が集中して物語を思いだせるというのがひとつ、それと手と視線の行き先がなくなってしまうと落ち着かない、
ということだろうと孟徳は解釈している。
視線を合わせると緊張して頭が真っ白になる、というほどこちらを意識してくれているのならば嬉しいが、
そこまでの感情は少なくとも今はまだ彼女の中にはないだろう、残念ながら。そんなことを考えつつ、
孟徳は飽きもせず、一所懸命話す彼女の顔と彼女の語る話に注意を傾けていた。
「――そうして、彼女は海の泡になって消えてしまいました」
じっと話を聞いていた孟徳は、そこで「ふぅん」と鼻を鳴らした。
少し目を細めて、つまらなさそうにそうやって相槌を打つのは、
納得できないことや不満があるときだと花が知ったのはごく最近だ。
もしかして話の筋を間違えただろうかと彼女は首を傾げた。
自分の国の昔話、というわけではないが、元の世界では相当にポピュラーな話だから、
覚え間違いということも多分ないとは思うのだけれど。
何かおかしかったですか?と花が問おうとしたとき、僅かに先に孟徳が口を開いた。
「そんな男、刺しちゃえば良かったのに」
「今の話、何かおかしな……え?」
「自分を救ってくれた子が誰かもわからないような馬鹿な男なんて、庇う必要ないよ」
「は…はあ」
「しかも、美しい声や住んでいた世界を捨ててまで、自分の元にいてくれようとした子なのに、どうして気付かないかな」
「そ、そうですね」
「俺なら絶対に間違えない」
「えっと…」
花はいつの間にかさり気なく自分の手を包み込んでいた孟徳の両手を見て視線を彷徨わせた。
孟徳はこういったスキンシップを平然と仕掛けてくるが、花はそういったことに対する免疫が薄いので、
毎回過剰に反応してしまう。
何とか離してもらえないかと、遊ばせていた視線を孟徳の元に戻すと、孟徳は丁度、琥珀色の目を伏せたところだった。
「でもね、もし万が一間違えたら」
至極自然な動作で、取られたままの花の手に、唇が寄せられた。
「っ!?」
「そうしたら、俺のこと刺していいからね」
ね、花ちゃん?と手の甲に唇を落としたまま視線を上げて駄目押しのように聞かれても答える余裕などあるはずもなかった。
暫く「あ」とか「う」とか言葉にならない音を発していた花だったが、
孟徳が手を離したことで漸く落ち着き、その後ふと思い出したように付け加えた。
「でも、人魚姫は…」
目を開けると天井が見えた。ただし自室のものではない。
「夢か…」
夢の内容を思い返す。
暑くもなく寒くもなく、爽やかに晴れた日で、庭の緑が青々と風に揺れていた。
あのときのあの話…確か人魚姫と言ったか、あの物語は。それを彼女から聞いたときの夢だった。
そういえば夢では出てこなかったが、あの直後彼女が何かを言っていたような気がする。
しかし、どうにも思い出せない。
頭の動きがやけに鈍い。まるでキツい薬でも飲んだ後のようだ、とぼんやりと考えていると、
枕元から良く知った声がかけられた。
「目覚めたか、孟徳」
「…元譲か」
そう発音すると頭が軋むように痛んだ。頭痛がいつもより酷い。
痛む頭を抑えながら起き上がった孟徳は、そこではっと身体を強張らせた。
ざっと勢い込んで元譲を振り仰ぐ。
「おい、元譲!彼女は…彼女はどうした!?」
元譲は唇を引き結んでどう答えるか考えあぐねたようだったが、言葉少なに答えた。
「…消えた」
「消えた、だと?」
「元の世界に帰った、んだと思う」
「……そのとき、彼女に息は?」
嘘を見逃すまいという鋭い視線を、元譲は腹に力を入れて見返した。
「わからん。意識はなかったようだった。だが、それ以上は…」
元譲の言葉に嘘はない。
孟徳は、くそ、と誰へともなく毒づいた。
少なくとも、元譲は彼女の死を確認してはいない。あるいは、あえて確認しなかった可能性もあるが。
なぜかなど考えるまでもない。もし彼女が死んだ場合、その事実を元譲が知れば、
間違いなく孟徳にもわかってしまうからだ。
元譲は、孟徳に嘘は通用しないということを知っている数少ない人間の一人だ。
「孟徳…」
気遣わしげな声も労わりも今は煩わしいだけだった。
「暫く一人にしてくれ」
「…わかった。何かあったら呼んでくれ」
「……」
そっと閉じられた扉の向こうには元譲が控えているのだろうし、事件の起こった後だけに、他の衛兵もいるだろうが、
元譲が気を回したのだろう、とてもそうとは思えないほどに静かだった。
そうして、しんと静まり返った室内で、孟徳は立てた片膝を抱えて俯き、長い間微動だにすることはなかった。
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2010.11.20
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