Calling

03:青い騎士と白い姫










ゆっくりとカナンが腕を下ろしたとき、周りの風景は見慣れた部屋のものに戻っていた。
「カナン様…!」
すぐ背後に立っているらしい彼の名前を反射的にいつものように呼ぼうとして、ぴくりと肩が跳ねる。
そうしてカナンの青色の目は伏せられた。
それから微かに震えた唇が漸く紡ぎ出したのは彼の名ではなく、彼と自分とを癒す魔法を行使する言葉だった。




魔法力はさほど衰えていなかったが、だからこそ逆に、鍛えることを怠っていた身体に魔法の連続使用は酷だった。
それでなくても先程の戦闘でかなり出血していたのだ。
カナンの青ざめた頬の色を見て、セレストが気遣わしげに手を伸ばす。
「カナン様、あまりご無理はなさらないでください。さぁ、今はお休みください。 怪しい気配が近づかぬよう、私が見張っておりますから」
近づく腕を避けるではなかったが、指先が触れる直前に薄い肩が震えたのに気付いたのであろう、 セレストはカナンには触れず、手を広げて寝台へと促した。

カナンは唇を噛み締めた。
まともにセレストの顔が見られない。
倒れそうにぐらぐらするのは、多分出血と体力の酷使のせいだけではない。

失くしていた記憶を取り戻し、全てを思い出した。
そのこと自体に後悔があるはずもない。思い出せてよかったと思う。
けれど、カナン・ルーキウスとしてセレストと共に歩んできたこれまでと、 全ての記憶を奪われてここで過ごした一年は相容れない。

無言で寝台に腰を下ろした主君から数歩離れた位置に控えたセレストは、 周囲に気を張っているものの、視線は穏やかなままカナンに向けられているのであろうことが容易に推測できた。
彼の気は以前と同じく穏やかで優しい。

彼のことだ。カナンが彼の名を呼び魔法を使いこなしたことで、もう記憶が戻っているとわかっているはず。
そのはずなのに何も問いかけてはこない。
全てを知った上での彼の優しさだというのだろうか。
(それぐらいなら、いっそ―――)
カナンは膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めた。
「…責め……くれた方が……」
「いかがなさいました?カナン様」
「…」
再び黙り込んだカナンに、セレストが困ったように苦笑し、それからふと表情を厳しくさせた。
「カナン様。お疲れのところを申し訳ありませんが、明日にでもここを離れましょう。 斥候がここまで来ているということは、この場所が見つかるのも時間の問題です」
今の状態で彼らと遭遇するわけにはいきませんと淡々と告げるセレストを、ゆるゆると上がった青い瞳が捉えた。

ずっとカナンを見詰めていたセレストと、漸くセレストを見たカナンの視線がかち合う。
懐かしい、一途にこちらを見詰めてくる新緑の瞳に、カナンの中の何かが切れた。


(僕は…僕は―――!!)


堪らず、カナンは吐き出すように叫んでいた。
「――ッ、セレスト!今すぐ、僕を抱け…っ」







「カ、ナン様…?」
呆然としたように問うてくる声に、カナンは不意に我に帰った。
「あ、いや…違う…その……すまない、忘れてくれ」
いたたまれない気持ちでセレストから視線を外す。

何を愚かなことを言っているのだろうか。
これまでのことは納得している。今振り返っても、やはりそれ以外にはどうしようもなかったとも思う。
第一今はそれどころではない。
祖国の危機の前にはそれこそ些事に過ぎない。
わかっているのに。

カナンは下唇を噛み、俯いた。

「―――カナン様」
「す、すまない、セレスト。すぐにいつもの僕に戻るから…」
以前は見慣れていたはずの緑の視線に耐えられなくなって身体を捩った瞬間、 腕を取られた。
驚いて見返すと、いつの間にか寝台のすぐ脇に来ていたセレストの真剣な表情が間近にあった。
「…離せ!」
「嫌です」
「!?」
「…カナン様、お手が…震えていらっしゃいます」

指摘されて、びくりと身が竦んだ。
昔から、ことカナンのことには鋭かった男だ。気付いていないはずもない。
ここでカナンが何をしてきたか。
そしてセレストの温もりを欲しての先程の浅はかな姦計にも。

カナンは奥歯を噛み締め、頑なに視線を逸らせた。
顔などあわせていられるはずもなかった。
ただ、小さく言葉を紡ぐ。
「セレスト。本当にすまないと、思っている。でも僕たちには国を救う使命がある。 だから、できればそれまで僕に力を貸して欲しい」
「もちろん、私はカナン様のいらっしゃるところどこへでもお供いたします」
「…っ、そ、うか。ありがとう。では…あ、明日からも…よろしく頼む」
「はい。お心のままに」
従順な臣下の答えを返しながらも、セレストはカナンの手を離そうとはしない。
暫く沈黙を保っていたが、やがて痺れを切らしたカナンが軽く袖を振って遠回しに手を離すよう催促すると、 拘束する力はさらに強まった。
波立った神経が限界ぎりぎりで揺れていたカナンは思わずカッとなる。
「離せ、セレスト!」
「嫌だと、先程も申し上げました」
「なにを言…」
カナンの言葉は不自然に途切れ、代わりに大きく見開かれた瞳が感情を表した。
瞠った目は、自身の指先へ。
正確には、手を取ってその指先に恭しく口付けを送る男の口元へ。



「な…」
懐かしい温もりに感覚の全てを委ねそうになった瞬間、カナンの瞳に影が走った。
セレストの腕を振り解こうと激しく暴れる。
「やめろ、セレスト!命令だ」
「聞けません」
「お前は…っ!」

カナンは目の前の男を、初めて憎いと思った。
怒りの感情は、さらにカナンの神経を高ぶらせ、決して言うつもりのなかった言葉までも吐き出させる。
「お前も気付いていないわけじゃないだろう!この酒場で僕が男たち相手に何をしていたか!! お前という者がありながら、僕は見ず知らずの者に体を開いていたんだぞ…!?これは…裏切りだ…! 僕はお前を裏切ったんだ!!」

しまったと思ったのは言葉が全て喉から滑り落ちた後だった。
けれど、
「それが、何か?」
「…!」
思ってもみなかった切り返しに絶句する。
信じられないものを見る目で見たセレストの表情には気負いや無理はいっさいない。
淡々とした口調で話す彼の表情は、ひどく穏やかで、柔らかいものだった。
「なん、で…」
ぽつりと漏れた、途方に暮れたような呟きをセレストは大切に拾う。
「…私にもわかりません。確かにあなたに触れた者が他にもいるなど許せるはずもない。 私はこれでも本当はとても嫉妬深いんですよ…?もしかしたら明日にでもその者たちを全員探し出して 殺して回るかもしれない」
物騒な言葉とともにほんの僅かに瞳に混じった剣呑な光は、 カナンを怯えさせる前にすぐに穏やかな新緑に塗りつぶされる。



「それでも」
取ったままだった白い手をセレストはそっと己の頬に当てた。
その存在の有無すらわからなかった一年は、彼を求め続ける感覚を麻痺させるに充分だった。
時間が経つにつれ、記憶から徐々に薄れていく彼の存在に、 逆にどこまでも高まり続ける彼を求める気持ちが何度も絶望の声を上げた。
それだけ焦がれた存在が、今、再び目の前にいる。
声が、聞ける。
匂いが、雰囲気が、優しく漂ってくる。
そして、その温もりを直に感じられる。
「今はあなたの温もりが、ただただ愛おしい」
この温もりは、何度も見続けてその度に絶望した「幻」ではない。



「…申し訳ありません。あなたの苦しみを知りながら、それでも俺は…」
聞きなれない一人称にカナンが弾かれたように顔を上げるのと、 セレストが続く言葉を吐息とともに吐き出すのがほぼ同時だった。
「…あなたが生きていてくれて、良かった。今は、それだけで…」
カナンの片手を両手で大切に握り締め、そこに祈るように額をつける。
包まれた手の温もりとは別に、熱いものがぱたりぱたりと手の甲に染み込むのを感じた。

気付いたカナンは雷に打たれたように立ち竦み、それから泣きそうに瞳を歪めた。
セレストは顔は伏せたまま、手の中に収めたカナンの指先に、掌に、手首に、次々に唇を落としてゆく。
合間に何度も囁かれるのは何よりも愛しい人の名前。
「カナン様、カナン様、カナン様―――」
「あ…あ……」
何度呼んでも呼び足りないというように、名を繰り返すセレストに、カナンの顔がくしゃりと歪んだ。
「す、まない、セレスト…。僕が全てを忘れていたこの一年間、 お前はずっと僕を捜してくれていたんだったな…それなのに僕は、自分のことしか考えないで…」
「いえ、仰らないでください、カナン様。私はあなたを守れなかった。 あなたが今苦しみを抱いているのならそれは全て私の責任です」
思ってもみなかった言葉にカナンは目を瞠る。
「何を…!おまえに責任など…」
「いえ…いいえ…私は全てをかけてでもあなたをお守りすると誓ったのに、それを果たせなかった…」
この男の忠誠心の高さと強い責任感を知るカナンには何と返してよいかわからない。
けれど、彼の言葉はただ悔恨で終わったわけではなかった。
「…けれど、もし私を許してくださるなら、どうかまたお側においてください」
請われてカナンは反射的に叫び返していた。
「許すも許さないもあるか!もちろんだ!」
一呼吸おいて、自然にのぼってきた笑みのまま、こちらからも彼の存在を請う。
「お前さえ嫌でなければ、僕の側にいて欲しい」
「ありがとうございます。今度こそ、必ずお守りいたしますから…」
「…違う」
「え?」
「守らなくていい。守ったりしなくていいから…」

あくまでもカナンを守るというスタンスを崩そうとしないセレストと、 そんな彼に対等なパートナーとして扱ってほしくて拗ねていたあの頃に 何度も繰り返した会話に似ていると思ってカナンは可笑しくなる。
結局欲しいものはあの頃と変わらない。彼に認められることと、彼が側にいてくれること。
ただ、あの頃と違うのは、その感情に飢餓感が加わったこと。

「カナン様…?」
カナンの声が震えたことに気付いたセレストが眉根を寄せて様子をうかがう。
「お願いだ、セレスト。…例えそれがお前に迷惑をかけることになるのだとわかっていても、 それでも僕は…もうお前を手放せない」
「カ…」
「僕の…側にいてくれ」
目一杯の力で首にかじりつくように抱きつくと、すぐにそれ以上の力で抱き返された。
「当たり前です。もう、絶対にお側を離れませんから」
そう耳元で囁く掠れた声と、痛いほど抱き締めてくる腕にカナンは泣き笑いを漏らした。

















-->エピローグ





2007.03.11/九堂紫
あとは短いエピローグをば。







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