Calling
03:青い騎士と白い姫
目の前まで来ても青年の視線が外されることは一秒たりとてない。 ここまで近づけば普通なら何らかのアクションがありそうなものだが、青年はその目でじっとこちらを見ているだけだ。 青年のすぐ前まで来て立ち止まると、彼の口がもう一度先程と同じ動きをした。 密やかすぎて店の喧騒に紛れてしまったが、今度は唇の動きを読んだこともあって、何とか聞き取ることができた。 『カナンさま』 青年はそう言って目を細めたのだ。 酒場の者として客に対する応対は心得ているつもりだが、このときはどうしても気になって、 率直に質問をぶつけてしまった。 「…失礼だが…貴殿は僕のことをご存知なのか?」 問いかけた瞬間、青年の顔が歪んだように見えたが、ほんの一瞬のことだったから見間違いかもしれない。 それでも、青年の青い髪に、緑の瞳に、どことなく懐かしい気持ちになる。 安らぎと安堵感、それからほんの少し、胸の奥をぎゅっと握られたような痛みと。 せめぎ合う感情を持て余していると、青年はゆっくりと唇を開いた。 恐らくは言葉を紡ぎ出すために開かれたそれを、瞬きもせず凝視する。 それに集中しすぎて、背後に配る注意が疎かになった。 「姫〜」 唐突に酒臭い息が項に触れ、思わず首を竦める。同時に、しまったと顔を顰めた。 この店で姫と呼ばれる自分を一晩買うのは決して安くはない。そのせいか、 店に来る客に話しかけられることは多いが妙なちょっかいをかけられることはそうそうない。 けれど何にしろ例外というのはいるものだ。 ここで酒を飲む者の中には、もちろん気の良い連中も多いが、当然そうでないものもいる。 性質の悪い酔っ払いというのがやはりいるのだ。 とは言え客は客なので邪険に振り払うこともできず、以前同様の客に捕まったときは非常に苦労した。 それ以後は気をつけていたのだが、今日はうっかりしていたとしか言いようがない。 「何か御用があるのならば後ほどうかがう。今はいったん席に戻っていただけないだろうか」 「そうつれないこと言うなよ、姫」 「申し訳ないが、今僕はこちらのお客と話をしている。だから…」 言いかけて止まったのは、目の前の酔っ払った男が小さな袋を取り出し 嫌な笑みを浮かべながら舐めるような視線を送ってきたからだ。 嫌な予感は三秒後には現実となる。 「先日割の良い仕事を受けたんだ。だから今夜は…」 感情は後回しにして、とりあえず一番穏便で被害のない方法はどれか、計算をする。 答えは考えるまでもなかった。 仕方あるまいと、今まで男を威圧するように強い光を投げていた瞳を伏せ、自ら男の方に近寄ろうとした。 しかしそれより一瞬早く、視界の端で青い影が動いた。 「申し訳ないが―――俺の方が先約なんだ」 涼しげな声が、譲らぬ響きで割って入ってきた。 明らかに先程の男のものより重そうな袋を取り出し、惜しげもなくこちらの手に乗せながら、 視線は酔っ払った男に据えられたままだ。 ずしりとした重みを手のひらに感じながら、そんなことよりも彼を取り巻く空気の冷たさにぞっとした。 当然、正面からこの冷気を受けた男はひとたまりもなく、 酔いもすっかり醒めたような顔つきでそそくさと席に戻っていった。 その後姿を、監視するかのように冷たい目で見送った後、青年はこちらを振り返った。 思わずびくりとするが、こちらに向けられたのは先程の冷たさを露ほども感じさせぬ穏やかな微笑だった。 「大丈夫ですか?」 「あ、ああ…すまない。感謝する」 ほっとしつつ、金貨が詰まっているのであろう袋を返そうとすると、青年に押し留められた。 「これは取っておいてください。その代わり――少しだけ、あなたのお時間をいただけませんか」 「僕の時間?」 では、この彼もやはりそういう意図を持っているのだろうかと瞳を揺らせると、 気配で察したのか青年が困ったように苦笑した。 「ご安心ください。私はあなたにとって益のないことは決していたしませんから。 …少し、お話がしたいのです。静かなところで」 確かにこの喧騒の中は話し合いには不向きだ。 青年の瞳に相変わらず曇りがないことを確かめつつ、「ではこちらへ」と上の階にある自分に与えられた部屋へと促した。 自室の扉を開けようとすると、その前に青年の腕が当たり前のように扉を開け、恭しく頭を垂れた。 「お客にそのようなことをしてもらうと困る」と食い下がったが、 青年は穏やかな笑みを浮かべながら首を横に振っただけだった。 埒が明かない。 諦めて先に部屋に入ると、数歩の距離を置いて彼が後から入ってきた。 一連の行動は、エスコートというより臣下の礼に近い。 不審には思うがどういうわけか違和感を感じないのは青年の振る舞いが板に付いているからだろうと解釈しながら、 とりあえず椅子を勧めてみるがやはり断られた。 やれやれと息を吐き、こちらも座することなく青年と向かい合った。 「僕に話とは何だろうか。貴殿は僕の知らない何を知っておられる?」 「…今のあなたが知らないあなたのことを」 「ではやはり貴殿は僕のことを知っているのだな?」 気が急いて、やや早口になってしまったのは仕方がない。相手も気にする風でもなく、諾と答えた。 「はい、カナン様」 「カナン…さま…?それが…僕の名前なのか?」 青年はゆっくりと頷く。 「貴方の御名はカナン――カナン・ルーキウス。…カナン様、それが貴方のお名前です」 「カナン・ルーキウス…」 呟いて、口の中でその名を噛み締める。 「それが僕の名前だというのか…」 「はい、そうです。カナン様」 「しかしルーキウスとは…ルーキウス王家に連なる者だとでも?」 つまらない冗談だと笑い飛ばそうとしたところを青年に遮られた。 「その通りです。貴方は現国王リプトン・ルーキウス陛下のご子息にして王太子リグナム殿下の弟君であらせられる、 第二王子、カナン・ルーキウス殿下でございます」 「は…」 確かに自分には記憶がない。 しかし、だからと言ってある日突然、あなたは王子なのですと告げられてあっさり信じる者がどこにいるだろう。 けれど、青年の顔には計略など一切なく、嘘偽りのにおいも感じられない。 「…仮に僕がそのカナン殿下とやらだったとして―――それなら貴殿と僕の関係は何だ?」 「私の名はセレスト。セレスト・アーヴィング。幼少のみぎりよりお仕えしてまいりました貴方の従者です」 確か、ルーキウス王国に長らく仕える騎士団長がアーヴィングとかいう名前だったはずだ。 以前酒場に来た役人の話にその名が出たことがある。 そう言えば、その息子も相当の使い手で、騎士団に籍を置いているとか…。 カナン・ルーキウスに仕えるアーヴィング家の者。 出来すぎだ。 他国とは言え、王族など雲の上の人間だ。あまりに非現実的すぎる。 それでも頭ごなしに否定できないのは頭の中で何か引っ掛かりを感じるからだ。 この突拍子もない話と、それを馬鹿馬鹿しいと思いつつも何故か真剣に耳を傾けてしまう自分とに困惑を覚えながら、 どうしたものかと視線を彷徨わせる。 そのとき、困惑をさらに助長させる出来事が襲った。 「カナン様―――」 セレストと名乗った青年は薄汚れた床に恭しく膝をつき、服の裾を押し抱いてそっと口付けた。 「な、何を…っ」 「カナン様、ご無事で何よりでした」 この期に及んでも青年の瞳に嘘偽りはない。 それどころか切望と安堵がない交ぜになったような不思議な色を湛えた瞳が一心に向けられるのを 些か戸惑い気味に受け取る。 そうやって視線が交錯した瞬間、ふと今までと異なる空気が流れた気がした。 穏やかで、どこか懐かしいような、これは。 「既視感…なのか?」 自分の感覚に説明が付かず、セレストと名乗った青年に詳しい事情を聞こうとしたとき、異質な気が場の空気を乱した。 『み・つ・け・た・・・』 声は耳ではなく脳に直接響いた。 同時に、目の前の空間が捩れ、黒い靄のようなものが出現していた。 有り得ない現象への驚きより、五感に直接干渉されるような不快感が勝った。 「な、んだ…こいつは…」 不快感に顔を顰めながらそれに視線を合わせるのと、隣でセレストが鋭く叫ぶのとか同時だった。 「斥候か…!」 言うが早いか、彼は腰の剣を抜き放ちざま、靄の中心に投げつけた。 靄と接触した瞬間、剣は白い光を放った。 『ぎ・や・あ・あ・あ』 耳障りな音声を残して、靄は拡散し、やがて消えた。 セレストは厳しい顔つきのまま、靄が出現した辺りにしゃがみ込み、付近をくまなく調べ始めた。 「何を…しておられるのだ?それに今のは一体…」 この問いかけに、セレストは立ち上がってこちらを振り返った。 「今のは十中八九、彼らの放った斥候のはずですから討ち漏らすわけにはいきません。 完全に消滅させられたかどうかを確認する必要があります」 「彼ら、というのは…?」 セレストは言いよどんだ。 「…彼らは貴方を捜しています」 「僕を?」 「正確には、一年前、貴方とともに城から消えた緑の宝玉を」 「緑の…宝玉…」 ぎゅっと服の上からそれを握り締めた。目覚めたときに側に転がっていたらしいその宝石は、 何か身元を捜す手がかりになるかもしれないからと、それから肌身離さず身に付けているものだ。 彼の言う宝玉とはこれだろうか。 「その宝玉というのは、もしかして…」 確かめようと宝玉を服の中から引っ張り出しかけて、息を呑んだ。 再びぐにゃりと捩れる空間。 「な、んだ…?」 錯覚かと目を瞬かせたときには既に辺りの景色は完全に変わっていた。 |