「…その戦い、ちょっと待ってもらえるかな」
戦端が開かれようとしていたまさにその時、一陣の青い風が吹いた。
声の主を求めて頭を巡らせていた者たちの一人が、あっと声をあげて、城のバルコニーを指した。
「奈落王…!」
ざわりと集団が驚きと困惑をあらわにした。
指差すと言う行為を不敬と咎める余裕のある者は誰もいなかった。
一年前と何ら変わらず、白いマントで身を覆ったすらりとした立ち姿だった。
ただ目には包帯が巻かれており、彼の人となりを凝縮したような清廉で深い青い瞳だけは隠されていた。
脇には青の賢者ベリルが控え、その身体を支えている。
先ほどの言葉は控えているベリルのものであり、彼自身は一言も発していないし、ただそこに立っているだけだった。
けれど、風に流れる長い銀糸も端麗な面立ちも清浄ながら強い存在感も、彼本人でしかありえなかった。
「奈落王…!」
「奈落王だ…!」
次々に畏怖の声が上がり、暴動を起こそうとしていた集団は揃ってその場にひれ伏した。
ジェイドは、ただ目を瞠って、食い入る様にその人影を凝視していた。
「まさか…」
掠れた声が漏れた。
信じられるはずがなかった。
けれど、彼の姿だけは見間違うはずもなかった。
一同が静まり返ったところで、「さて」とベリルが口を開いた。
何か魔法を使っているのだろうか、相当の距離があるというのに、その声は途切れることすらなく場内に響いた。
「見てのとおり、奈落王はまだ体調が万全ではないが、不穏な動きを察知されて、
ご自分が出ると仰ったのさ。僕は一応止めたんだけどね。
ちなみに薬の副作用で今は一時的に目と喉を痛めておられるから、
今日は僕の代弁で許してほしいね。でもまぁ、随分と回復されているから、もうじき政務に復帰されるだろう」
飄々とした説明を聴衆が噛み砕いたところで、ひれ伏していた暴徒のリーダーが声を上げた。
「奈落王、申し訳ありません。貴方様を疑い、仇なそうとしたるは死に値する重罪。どうぞ厳罰を」
ベリルは顔を顰めた。
前奈落王の正体がベリルであることを知っているジェイドには、理由がわかった。
ここに集まった者たち、特に跪いて今、己への処罰を求めた男は忠義に篤い男で、
先王時代から相当に貢献してくれている。
弱肉強食な奈落にあっては珍しいタイプの男だったが、貴重な人材――有能な忠臣であることに違いはなかった。
プラチナもジェイドもそうと知っていて彼を要職に取り立てていたが、
誰よりもそれを知っているのはベリルのはずだった。
ベリルは伺うように暫しプラチナを見上げ、何事か囁きかけて二度三度頷いた後、
得たりとばかりの笑みを浮かべて皆に向き直った。
「奈落王は許すとの仰せだ。奈落のための思っての行動だということはわかっている。
これからも、何か不審があれば意見し、諌めて欲しいと」
肯定するように、プラチナは、小さくだが確かに頷いた。
それを見ていた者たちから再びざわめきの声があがる。
寛大な心を見せた奈落王に対しての驚きであったり畏敬であったりしたが、
それらはすぐに、奈落王へのより一層の忠心という形に帰結した。
「ありがとうございます。奈落王。これより、さらなら忠義を持ちまして貴方様にお仕えいたしたく」
呼応するように、奈落王万歳と王を讃える声があたりに広がった。
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2009.06.07
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