|
授業が終わり、学舎で友人たちと少し話に興じていた光也がそれに気付いたのはまったくの偶然だった。 同じく話に加わっていた仁が、学園長に呼び出されて席を立ったのがつい今しがたのこと。 皆でそれを見送ってから暫く経った頃、光也は仁の席の下に味も素っ気もない無地の封筒が落ちているのを見つけたのだ。 「あれ?これ…仁が落としてったのかな」 拾い上げて裏返してみるが宛名も差出人もない。 窓に向かって透かしてみる。 「あ、空じゃねぇんだ。手紙…?」 呟いた光也に、友人の一人が声を潜めて告げた。 「その手の手紙なら…また、あれじゃないのか?春日への脅迫文」 「脅迫文……脅、迫状!?」 不穏な言葉にぎくりとするが、その反応は光也だけだったようで、もう一人の友人もゆっくりと頷いた。 「ああ、そうか。今の相馬は知らないかもしれないなぁ。…春日宛の脅迫文はそれほど珍しいものではないんだよ」 教師の息子だという彼は普段はおっとりと物静かだが、 重要なことを曖昧に誤魔化すような真似はしない。 まっすぐ相手を見てはっきりと真実を告げる。 だからこれが性質の悪い冗談などではないことが光也にもすぐわかった。 ふいに、脅迫の類は初めてではないと以前仁本人が言っていたことを思い出した。 何でもないことのように言われたから、過去のことだと、今はもうないのだと何となく思ってしまっていたが。 でも実際はどうだったんだろう。 いつも、特に何事もないというふうに飄々として見えたが、 その裏ではもしかしたら脅迫のようなことが現在進行形で続いているのかもしれない。 ざわりと胸に悪寒が走った。 「お、おい!どうした?相馬」 突然立ち上がった光也に、友人たちは驚いたように声をかけてくる。 「あ、その、オレ…っ、ちょっと用事がある、から」 ぽかんとこちらを見上げる友人たちの間を、困ったように目を彷徨わせて、 「…先に帰るって、仁に言っといて!」 「おい、相馬!?」 追い縋る声を振り切って、光也は学舎を飛び出した。 走りながらも、手の中の薄っぺらい封筒がひどく重く感じた。 やがて人気の少ない道で立ち止まり、肩ではぁはぁと息を吐く。 握り締めたせいで少ししわになっている封筒に改めて目をやる。 先程、適当な言い訳を考えながら、目は正直にもちらりとこの封筒に落ちてしまったことを 友人たちに気付かれただろうか。 しかも、結局うまい言い訳を思いつくこともできずに飛び出してきてしまった。 「仁だったら…」 彼ならば何でもない顔で即座にうまい言い訳のひとつやひとつこしらえて、 何事もなく場を収めるのだろうと考えると溜息が出た。 あるいは従兄弟の慶であれば。 考えかけて光也は頭を勢い良く振った。 そんなことを考えている場合ではないのだ。 封筒に伸ばした指先が少し躊躇った。 他人への手紙を勝手に見ることには罪悪感がある。 だがこれが本当に脅迫状であるならば話は別だ。 「それに…宛名だって書いてねぇし」 誰へともなく言い訳めいて呟くと、光也は意を決して封筒から便箋を引き抜いた。 「なん、なんだよ、これ…」 切れ切れに言葉を搾り出した光也の手の中には、くしゃくしゃに握りつぶした便箋。 友人たちの推測は正しかった。 祖父である春日伯爵に政界から身を引くことを勧めるようにと、 言葉だけは丁寧に綴られている文章。 勿論、さもないと、という脅迫付きだ。 おまけに、異人との子とは言え半分はこの国の血が入っているのだから、 正しい道を示すことで愛国民であることを示せ、そうすれば同じ国の同志として認めてやるという、 恐らくはあちらからすればとても寛大なつもりの、傲慢で侮蔑を多分に含んだ誘い。 重ねて、妹や友人らに危害が及ぶ前に賢明な判断を期待するという結びは、 光也にとっては到底無視できるものではなかった。 「なんで…なんでこんな…」 実際、上の立場の者やその関係者が敵対勢力に狙われるのは珍しくない。 それでも仁が暴徒に襲われたとき、そして脅迫の類が今までにもあったと知ってから、 憤りは専ら脅迫される恐ろしさとそれをなぜ仁が受けなければならないのかという理不尽さに向けてのことだった。 けれどそれだけではない。 嘲りと侮蔑、明らかな差別が見え隠れするこんなものは、ただの脅迫どころではない。 仁の存在自体を否定して踏み付けにするような卑劣な攻撃だ。 「くそ…っ」 怒りに任せて脅迫状を破り捨てようとしたが、すんでのところで手を止め、忌々しそうにポケットに突っ込む。 この差出人が仁を狙って直接やってくることも有り得ないわけではない。 もしかしたら犯人を割り出す手がかりになるかもしれないし、 人目につくかもしれないところにこんなものを捨てていくわけにはいかなかった。 『昔から何度か脅迫文を受け取った事はあるし』 以前、仁はさらりとそう言った。 「あいつ…平気な顔して…」 こんなものを受け取って、普通ならば平気なはずでない。 仮に今の仁がこれを平然と受け止められるのだとすれば、 それは過去に同じ経験をして傷ついて、結果、それ以上傷つかぬように感情が麻痺してしまっただけだ。 「仁…」 強く噛み締めすぎた唇からは鉄の味がした。 「―――光也!」 突如、かけられた声に光也はびくりと反応を返した。 咄嗟に振り返るのを躊躇ったが、有無を言わさぬ強引な腕が光也の腕を引いた。 「急用と聞いたが?こんなところで何を―――」 少々不愉快そうだった緑の瞳が、光也の顔を見た途端に色を変えた。 「…光也?何があった?」 推し量るように聞いてくるその気遣いが辛い。 我がままだったり嫉妬深かったりするが、 彼が身内には甘いといって差し支えないほど優しいことを知っている。 そもそも、敵と認めたもの以外には基本的には優しいのだ、彼は。 この脅迫状に含まれたものに似た悪意や毒を、今までさんざん受けてきたにも関わらず。 光也は何でもないと首を横に振った。 「オレは何でもない。そんなことより――」 「待て、光也。その口はどうした?」 「え?」 伸ばされた指先が口の端をそっと辿った。 あまりに優しい感触に、抵抗するのも忘れて光也は仁の指の動きを呆然と追った。 光也から離れていった指先は仁の元へ戻り―― 「…血の味がする」 「…」 間があった。 硬直した光也の脳内に、ゆっくりと視覚からの映像が行き渡り、そして、 「当たり前だーっ!じゃなくて、んなもん舐めんなよっ!!」 真っ赤になって叫ぶ光也に、仁はけろりと答えた。 「だって傷を直接舐めたら怒るだろう?」 「あ・た・り・ま・え・だ…!」 羞恥と怒りに身を震わせながら抗議しようとした光也を遮ったのは、 ふと何かに気付いたように露骨に顔を顰めた仁だった。 「…光也。まさかとは思うが、その傷…」 「?」 「不埒な輩に狼藉を働かれたわけではないだろうな」 プチンと光也の中で何かが切れ、容赦ない右ストレートが仁の顔面に決まった。 「勝手に先に帰ったかと思えば、追ってきた僕にこの仕打ち…」 「自業自得だ」 まだ赤みの残る頬をさすりながら零す仁を光也はすっぱり切り捨てた。 先程までの全身を食い尽くすような不安と怒りは今はもう見事に消え去っている。一連の仁の行動のせいで。 まさか光也を落ち着かせるためにそんな行動を取ったのだとは思えないが、 いつも精神が揺れたときには結果的に仁に助けられている。 助けられるばかりで。 本当は、助けにきたはずなのに。 助けたい、のに。 「…なぁ」 家路につきながら隣を歩く仁に声をかける。 「うん?」 「お前、何かオレに隠してることねぇ?」 脅迫者への怒りが先にたっていたが、そう言えばどうして仁は脅迫状が来たことを話してくれなかったのだろう。 信用されていないからだとは、なるべく思いたくない。 彼の中ではわざわざ言うほどのことでもなかったのだろうか。 それとも頼りにはならないと思われているのだろうか。 あるいは暴走するとでも思われているのなら…確かにその可能性は自分でも消せないが。 仁を助けたいと願う自分が、彼の周りで起きる問題に関わらせてほしいと思うのは、彼にとっては迷惑な話なのか。 いざとなったら無理矢理にでも関わってやるが、できれば仁の方から話してほしかった。 そんな思いを込めて光也は仁を見詰めた。 視線を受けた仁は少し戸惑ったような顔を見せ、それから僅かに顔を俯かせた。 「…僕が?何を言い出すかと思えば…いつも隠し事をするのは光也のほうだろう?」 あっさり打ち返されて、光也はむっと唇を引き結んだ。 こういうとき彼がよくやるように、今回も鼻で笑いながらの言葉だったならば言い返していたところだが、 吐き出した仁の横顔がどこか淋しそうに見えたので追及する言葉を失ってしまった。 何を指しての言葉かはわかっている。 仁は未だに光也と慶の関係を気にしている。 慶と光也の最初の接点が見つけられない限り気にし続けるのだろう、が、言えるはずもない。 元いた時代で従兄弟だったんだ、なんて。 言っても信じるはずもないから”言わなかった”その理由は、今や”言えない”理由に変化している。 来る災禍から仁を助けるのが慶光であるべきならば、 少なくともこの肉体は慶光と同じである――同一人物であると思っていてもらわねばならない。 光也はこっそりと息を吐いた。 事情があるとは言え、こちらにも仁に言えないでいる秘密があるのだ。 それなら逆に仁が光也に隠し事をしたとしても責められない。 それでも。 「…でも、これからは絶対に見過ごしたりしない。無理矢理にでも関わって…何が何でも間に合ってやるんだからな」 「?何の話をしているんだ?光也」 「…こっちの話」 疑問符を顔に浮かべた仁の追及を誤魔化すように、光也は「おし、早く帰るぞ!」と走り出した。 |