彼の隣は
ざわめいていた四年は組の教室内は、始業の時間が来たと同時にぴたりと静まり返った。 いつもならここで担任の土井半助が複雑そうな面持ちで 「おまえたち…いや、確かに始業に合わせて静かになるというのは良いことなんだが…始業前とは言え、 四年にもなって騒ぎすぎじゃないか?一年の頃と変わらんじゃないか…」などと言いながら教室に入ってくる頃だ。 しかしまだ戸は開かれない。 十秒ほど経った頃、乱太郎は首を捻った。 「土井先生、遅いね」 きり丸としんべヱが頷く。 「何かあったのかな」 三人の会話に、他の生徒も次々に乗ってくる。 「もうすぐ夏休みだから補習の予定とかがそろそろ発表される頃だろ?補習するかどうかで山田先生ともめてるのかな」 「補習は毎年のことだから今更もめないだろ…」 「じゃあ緊急の職員会議でも入ったとか」 「それって、また何か問題が起こったってこと!?」 「探ってこようか!」 一気にわあっと騒がしく盛り上がった教室の戸が、突然がらりと開いた。 一斉に居住まいを正すが、戸口の人物を見て、一同は驚きの声を上げた。 「「「が、学園長先生…!?」」」 学園長、大川平次渦正がは組の教室を訪れることは皆無ではない。 だが珍しいことは珍しい。 というより、彼が動くとき、それは彼がまた妙な思い付きを起こしたとき、 という図式が忍術学園の生徒ほぼ全員の中に刷り込まれている。 そういったわけで、は組全員が固唾を呑んで学園長の言葉を待った。 この視線の中、学園長は生徒全員をぐるりと見回した後、徐に言葉を放った。 「突然じゃが、四年は組の諸君に手伝ってもらいたいことがある!」 と同時に、一斉に教室内に溜息が溢れた。 乱太郎らは頭をつき合わせてひそひそと喋る。 「…やっぱり…。また、学園長の思いつき…」 「すぐそうやって生徒を振り回すんだから…」 「せっかくの夏休み前に、問題にならなきゃいいけど…」 「何を言うか!思いつきではないぞ!これはれっきとした知人からの依頼じゃ! 大体、いつも問題ごとを引き寄せるというか首を突っ込むというかとにかく問題ごとに縁のありすぎる お前たちに言われたくはないわ!」 凄まじい勢いで学園長に詰め寄られた最前列の乱太郎、きり丸、しんべヱは愛想笑いを浮かべて 「まぁまぁ」と宥めにかかる。 三人に救いの手を伸ばしたのは学級委員長の庄左ヱ門だった。 「それで、学園長先生。依頼というのは一体どのようなものなのですか?」 学園長は身を引くと、ふむと顎を擦りながら話し始めた。 「実は、ある町に忍者が潜伏しているという話があってな。ひと月以内にその内情を探って欲しいというんじゃ」 「ひと月もですか!?」 教室がざわめく。 まだ学園で忍術を学んでいる彼らからすれば、ひと月というのは相当な長さだ。 校外実習でもまだそれほどの長期間にわたるものはなかった。 「それだけ時間がかかると学園長先生は思われているわけですね?」 「うむ。かなり上手な忍者が、如響忍として入り込んでおるということまでは突き止めたんじゃが、 相当に町に馴染んでおるようで、今まで何人かの忍者が探りに行ったがまだ尻尾を掴めんのじゃ」 「そんな難しい仕事をおれたちに頼んでいいんっすか〜?」 呑気そうな声で質問を投げてきたきり丸に学園長はごほんと咳払いをした。 「それなんじゃが…どうやら失敗の原因は敵に警戒されてしまったからのようでな…。 奴は一人で町に流れ込んできた者を完全に警戒しておる。…そこでじゃ! 忍の腕よりもまずは奴の警戒を緩めることが第一!ということで若夫婦に化けて入り込んでもらいたい!」 「「「わかふーふ…」」」 突然わいた単語を、は組の面々は声を揃えて呟いた。 周りにどこかほのぼのとした雰囲気が流れるのは否めない。 「…ちょっと待ってください!」 ほんわかとした空気からいち早く抜け出た庄左ヱ門がはきはきと言う。 「忍の腕よりも、ってことは…もしかして、”腕についてはいまいち安心できないが、 多少抜けてるぐらいの方が向こうの油断も誘いやすいだろうからは組に行かせよう”っていうことですか?」 「う…っ」 鋭い指摘に思わずつまる学園長に、各所でブーイングが起こった。 「えー。ひでー」 「ぼくたちって何年になってもそんな扱い?」 学園長は慌てて首を振った。 「ち、違うぞ!断じてそんなことはない!!」 疑いの眼差しを向けられてさらに怒鳴りたてる。 「だから違うと言っておろうが!ちょっとはそう思ったが、 それはあくまでもお前たちが外に対して与える印象というかなんというかであって、 実力に対して不安を持ってるわけでは断じてなーいっ!」 「…まぁ、いいんじゃない?学園長先生もそう仰ってるんだし」と、乱太郎が苦笑しながらとりなす言葉を級友に向けた。 視線を受けて「まぁな」と頷いたきり丸は、「でも」と言葉を続ける。 「なんで若夫婦なんすか?油断を誘うっていうなら例えばしんべヱと喜三太のコンビとかいいと思いますけど。 緊張感なさそうで」 「そういえばそうだよね。間違っても警戒されそうにない」 「ひどいよ〜…きり丸、乱太郎…」 しんべヱの苦情はさらりと流され、彼と喜三太を除く全員が「それもそうだ」と相槌を打つ。 「確かに普段ならそうなんじゃが、今回は入り込む町が特殊でな。この町は完全に居住用の町なんじゃ」 「町なんだから、住むのは当たり前なんじゃ…?」 「いや、そうではなく、ここに住んでおるのは全員この近辺の豪族の屋敷で働いとる者かその関係者なんじゃ」 「ということは…?」 ちらちらと生徒同士で顔を見合わせあう。 「その町に入り込むには豪族の屋敷にも入り込まないといけない?」 「じゃあ子供二人ってのは無理だよな」 「町の人の関係者の振りをするのは?」 「いや、既に敵の忍者が入り込んでる以上、それは危険だ。ばれる可能性が高い」 「だったらやっぱり豪族の屋敷に入り込むしかないか」 「つまり豪族の屋敷に使用人として勤めたらいいわけだろ?」 「けど若夫婦って限定されてるってことは…」 「ああ、なるほど。ってことは…」 結論が出たようで、全員の視線が学園長へと向かう。 乱太郎が代表して口を開く。 「つまり豪族の屋敷に勤めるには、若夫婦に該当するような…若い男女二人分の空きしかないってことですね?」 「その通り!じゃが一人で入り込んだらまた警戒されるのが目に見えとる。そこで二人一緒に、 しかもできれば忍者とは縁がなさそうな平和そうな、何なら幸せボケしとるぐらいの若夫婦になりすまして 入り込めば完璧じゃ!」 学園長は正しい結論にたどり着いたは組に満足そうに頷いた。 「おまえたちの成長ぶりを改めて見れて嬉しいぞ。…では改めて、この依頼を君たち四年は組の諸君に任せたい」 「「「はい!」」」 全員の表情が引き締まる。 「しかし学園長、忍び込めるのはたった二人、一体誰を?」 もっともな問いに、白い眉毛の下から、ぎろりと視線を巡らせた。 「それについては、もっとも適任と思われる者に頼むことにした」 「適任…?」 「夫婦役の…?というか、それってもしかして…いや、多分、婦…」 乱太郎は隣にいたきり丸にちらりと視線を向けた。 「ん?何だ?乱太郎?」 教室中の視線が乱太郎の視線を追うように何となく集まる。 果たして、 「妖者の術、特に女装の見事さでは学内で一、二を争うきり丸!」 「長い名前だなぁ」 既に全員分の視線を集めていたきり丸が、軽口をたたきながらも「はーい」と返事をした。 「頼んだぞ」 「お駄賃はもちろん出るんですよね?」 「もちろんじゃ」 「一応言っときますが、ブロマイドとかは受け付けませんよ?」 「う……、わ、わかった。お小遣いを渡そう」 「了解しっましたー!早速準備してきまーす」 勢い良く拳を振り上げて疾風のように消えたきり丸に、彼の親友である乱太郎は、ハハと乾いた笑いを浮かべた。 「いつものことだけど…本っ当に、銭が絡むと素早いんだから」 それから、ものの数分で女装して現れたきり丸に、教室から「おお」とか「さすが」などという声が飛び交う。 他の生徒のように授業の一環としてのみ変装をするのではなく、 彼の場合アルバイトに有利という理由で、客に男とばれないように日常生活でも女装をしたりしているわけだから、 その差は歴然としている。 「きりちゃん…。さらに進化してるね…」 「あら、本当?乱ちゃん。ありがと」 鈴の転がるような声でころころと笑って、「うふ」と片目を瞑る様は、 少し大袈裟に言えば、町を歩けば十人が十人振り返る美人以外の何者でもない。 「うん。これが男だと一目で当てられる人がいたらすごいよ…」 「これはさすがに無理じゃないか?」 賛辞とも呆れともとれる級友たちの唸り声をさらりと流し、 「ところで学園長先生ー」 地声に戻ったきり丸が学園長を振り返る。 「夫婦ってことは二人で行くんすよね。旦那は誰ですか?」 「うむ。危険な任務じゃからな、まず腕が立つ者でなければいかん」 ぴしりと指を一本突き出す。 「それに相手の内情を探るという難しい任務じゃ。知略に優れていなければならん」 二本目の指が立った。 「しかし疑われては元も子もないので、きり丸との相性も重視した結果…」 そして三本目。 学園長の指先を、一同固唾を呑んで見守る。 その指先が誰を指すのか。 乱太郎はごくりと唾を飲み込んだ。 同様に、特に真剣な面持ちで学園長を凝視するのは、この条件に当てはまる数名たちだ。 は組で腕が立つといえば、文字通り強さでは剣術の金吾だが、素早さでは乱太郎、馬を使った機動力なら団蔵だ。 知略では常に冷静な庄左ヱ門が一歩抜きん出ている。 しかしきり丸との相性という点ではまず間違いなく乱太郎に軍配が上がるだろう。 つまり学園長が提示した条件を総合すると、乱太郎はかなり高順位だと思われた。 乱太郎がちらりと後ろを振り返ると、庄左ヱ門、金吾、団蔵が自分と同じように緊張に拳を固めていた。 となるとここはアピールが必要かも、と乱太郎が勢い込んで挙手しようとしたとき、 「きり丸」 不意に相好を崩した学園長がきり丸に向き直った。 「その格好で土井先生と一緒に行ってくれ」 「土井先生?」 乱太郎はずしゃっと顔面から派手にこけた。続いてさらに三つほどずしゃりと物音が続いた。 「…おい、乱太郎、何こけてんだよ。団蔵に金吾、庄左ヱ門まで」 物音に振り返り、奇妙な惨状に小首を傾げたきり丸は、ふと、 「にしても、このフリだからてっきり、は組の誰かと行くんだと思ったぜ」 と呟いた。 「そ、そうだ、それだよ!…学園長先生!は組に任せるっていう前振りは一体…!?」 きり丸の呟きに反応して起き上がった乱太郎が叫ぶが、 「何を言うとるんじゃ。土井先生も担任として、は組の一員じゃろうが」 「う…そ、れは確かに…」 返す言葉もなく押し黙った。 教室中に、完全に緊張の糸が切れた気だるい空気が漂う。 この空気を破るように、教室の戸がからりと再び開いた。 「…こらこら、何をやってるんだ?おまえたち」 「あ、土井先生!」 「まったく、四年にもなってしようがないな。一年の頃と変わらんじゃないか。 ほら、そこでコケてる庄左ヱ門、団蔵、金吾。さっさと立て」 やれやれと苦笑しながら教室に入ってきた土井半助は、既に忍び装束ではなく通常の着物に着替えている。 半助は表情を引き締めて、学園長にそっと耳打ちした。 「学園長、準備が整いました」 「うむ、ご苦労。少し急じゃが、今から二人で出発してくれ」 半助にうなずきを返すと、学園長は改めては組の面々と向かい合った。 「さて、町に入り込むのはこの二人じゃが、残りの諸君には二人の支援を頼みたい。 夏休みに食い込んでしまうが、それは実習の一環ということで納得してほしい。 まずはこの二人と学園を繋ぐ伝令役じゃな。素早くて状況に臨機応変に対応できる者がいい。 それからもしものときのために町の付近で待機してもらう用心棒、この支援者たちをまとめる参謀役、 といったところじゃが…」 学園長の話は続いていたが、乱太郎の注意は、こちらを見守っている担任教師と、 その彼の側にごく自然に駆け寄った親友に向けられていた。 乱太郎は教室の窓から外を見ていた。 視線の先では今正に件の町へと出発したところの半助と女装姿のきり丸がいる。 彼らが自然に連れ立っていく様子は、どこからどう見ても仲の良い若夫婦にしか見えない。 ふときり丸が半助を見上げた。自然と、こちらからは彼の横顔が見える。 彼はにこにこと笑みを浮かべたまま小さく何かを呟いた。 「あ…」 この距離では声は聞こえない。しかし唇の動きで、何となくわかってしまった。 「”半助さん”…?」 聞こえないはずなのに、女装のときに彼が使う、あの鈴を鳴らすような声が聞こえた気がした。 既に芝居が始まっているのか、あるいはいつものおふざけの延長でからかっただけなのか、それとも。 「…でも、きり丸楽しそう」 呟いた乱太郎の視線の先、きり丸の呼びかけに苦笑で応えた半助が、ごく自然にきり丸の頭に手をやった。 軽くぽんと叩いたようにも、流れる髪をそっと梳いたようにも見えた。 いずれにしろ、生徒に対するものとは違う、それよりもっと優しいもっと親密な仕草で。 「う…わー…」 思わず頬が熱くなる。 「あれじゃ確かにわたしたちが選ばれないわけだよ」 「まったくだ。地で、幸せボケしてる若夫婦なんて詐欺だよな」 唐突に割り込んできた声に慌ててそちらを見遣ると、頬杖をついた金吾がいつのまにやら乱太郎の隣に並んでいた。 その後ろには団蔵や、腕組みをした庄左ヱ門もいる。 「確かに土井先生なら腕も立つし頭も切れる、それにあの雰囲気は一朝一夕で出せるもんじゃないから、疑う者もいないだろう」 「庄左ヱ門、そんな冷静に…。でも実際、年季入ってるもんなぁ」 乱太郎は曖昧に頷いた。 年季というなら過ごした歳月は同じはずなんだけどというつっこみは飲み込んだ。 それを認めると余計に悔しくなるからだ。 乱太郎は伸びをしながら窓から離れた。 「…さて、わたしは伝令役の出番に備えて、裏山で走ってこようかな」 「乱太郎?」 「だって、今わたしができるのはきりちゃんと土井先生のサポートなんだから、それを一所懸命やるだけだよ」 本当は側にいたいけど、一番近くで守りたいけど、まだ力が足りないのはよくわかっている。力も、きり丸からの信頼も。 信頼されてないとは言わない。 けれど多分きり丸が一番、絶対的な信頼を寄せているのは多分”彼”に違いないから。 「…ま、とりあえず、今できることをね」 笑う乱太郎に、三人は頬を緩めた。 「そうだな」とまず動いたのは金吾だった。 「戸部先生に剣術の集中特訓をお願いしてくる。用心棒役がきちんと務められるようにね」 「じゃあ用心棒その二としては手裏剣の練習でもしようかな」 団蔵も続く。さらに庄左ヱ門が。 「それならぼくも付き合うよ。参謀としては皆の調子を把握しとかなきゃいけないからね」 順に教室を出て目的の場所へと向かう。 そうして残った乱太郎は、最後にもう一度だけ遠ざかる二人の後姿を振り返ってから、力強い足取りで教室を後にした。