忘れ水










パチンと頬が鳴った。
きり丸は張られた頬に手をやることも忘れて、目を見開いたまま呆然と立ち尽くした。

殴られるのは慣れている。
物騒な意味ではなく、問題ごとを起こしては担任の土井半助や山田伝蔵に拳骨を喰らうのは日常茶飯事だからだ。
その度「痛ぇ!」と涙目になるし、実際痛いのだが、呆然としたことは未だ嘗てなかった。
しかも今のは力いっぱいひっぱたかれたわけでもない。
叩かれたこちらにそれがわかるほど力加減されたもので、痛いと騒ぐほどのものでもなかった。
それなのに咄嗟に声すら出ないほど驚いた理由は、この相手が自分にこんな風に手をあげるとは思っていなかったからだ。

きり丸はゆっくりと目を眼前の人に向けた。
「利吉、さん…?」
見たことのない類の険しい顔をした利吉が仁王立ちしている。
不機嫌に眉間に皺が寄っているというのでなく、敵を前にしていかにも忍者らしい冷徹な表情を浮かべているのでもなく、 真剣にただ怒っているような顔の彼は、紛れもなく自分ただ一人を見ていた。
殴られたことよりも、この目が怖い。
どうして彼がそんなに怒っているのか。
どうやら自分が彼をとても怒らせたらしいことはわかった。だが理由は見当もつかない。
「あ…」
世渡りがうまい自信はあった。けれど、培ってきた数々の処世術も今は何の役にも立たなかった。
とにもかくにもこの視線に晒され続けることに堪えられず、思わずきり丸は踵を返してその場から逃げ出していた。
「きり丸!」
呼び止める声に振り向く余裕などあるはずがなかった。












「きり子ちゃーん。ちょっと奥の方手伝ってくれる?」
「はーい」
明るく返事をしたきり丸は、勘定が終わったというのにしつこく話しかけてきていた客に、
「女将さんに呼ばれてるから行かなくちゃ。ごめんなさい。また来てくださいね〜」
愛想の良い笑顔を残して、ぱたぱたと店の奥に入っていった。

最近できたこの茶屋は、丁度きり丸が休みに入った頃に店員のバイトを募集していたのだが、 給料のよさに即座に飛びつき、以降は専らここで働いている。もちろん女装だ。
この近辺は町の中でも特に賑わいをみせる界隈で、それだけに忙しいし、柄の悪い客が来たりもするが、 その分バイト代が良い。
このあたりで以前やったことのある酔っ払いの引き取りのバイトの方が割がいいのだが、 半助にバレてきつく注意されてからはすっぱり止めている。
確かに何をしでかすかわからない酔っ払い相手は危険だ。半助の言うこともわかる。
それに比べたらこちらは茶屋の給仕というだけで特に危険もないし、ときり丸は判断している。
今のようにしつこい客には辟易するが、別に危険というわけではないことだし。

奥に入ると、茶屋の女主人が「大丈夫だったかい?」と声をかけてきた。
「はい。でも女将さん、助かりました〜!あのお客さん何だかなかなか帰ってくれなくて…」
口をとがらせるきり丸に、女将は腰に手を当てて溜息をついた。
「あの男は完全にきり子ちゃん目当てだね。いいかい?店にいる間は私も見ててあげられるけど、 帰り道はよく気をつけるんだよ」
「はーい」
って言っても、実はおれ男なんだけどと思いながら、きり丸は素直に返事をした。
しかも、仮にも忍者のたまごなのだから、追ってこられても逃げる自信はあった。
そんな呑気な思いが顔に出ていたのだろう。
女将が表情を厳しくする。
「ちょっときり子ちゃん、わかってる?あんまり油断してると本当に攫われかねないよ」
「攫うって、そんな大袈裟な。あたしを攫っても身代金なんて出ませんし」
「…本気で言ってんの?」
「え?だってそれは…うち、お金ないですよ?」
まさか金持ちだとでも思われていたのだろうかと聞き返すと、女将がはそれはそれは深い溜息を吐いた。
それから徐に両手できり丸の頬を包むと、一旦軽く手を離し、今度はぺちっと音を立ててきり丸の頬を挟んだ。
「わっ!」
痛くはなかったが、驚いて女将を見上げると、彼女は困ったように笑った。
「あのね、客のあしらいも上手いし世慣れてるのに、どこか危なっかしいんだよ、きり子ちゃんは」
「……」
瞬きせずぼうっと見上げるきり丸に、女将は眉根を寄せた。
「どうしたんだい?力は入れてないけど、もしかして痛かった?」
心配そうに頬を注視する彼女に、きり丸はハッと我に帰って慌てて両手を振った。
「あ、違う違う、違います!ちょっと、その、今日知り合いに似たようなことされたなって、思い出して…」
「知り合いに?」
こくりと頷いて、きり丸は利吉とのことを話し出した。





今朝、ここでのバイトに向かう途中、久々に彼と会った。
実を言えばそのとき、丁度今しがたまで粘っていた客が視界に入り、げんなりしたところだった。
女装姿でバイトに向かうため、店の常連に途中で声をかけられることもなくはない。
ただ、しつこく話しかけてくるこういった男は苦手だった。
「大体、店に着くまでって言ったらバイト代もらってねえから、愛想振りまいてもタダ働きじゃん」
鼻白んだきり丸は道を変えようかと思ったが、どうやら相手は既にこちらを認識しているらしい。
今にもこちらに寄って来そうな気配だ。
ああもう面倒くさいなぁと不機嫌に足元の土を蹴りつけようとしたところに、
「やあ、きり丸」
この不快感を吹き飛ばすような爽やかな声で、利吉が声をかけてきたのだ。
このときはごく普通に会話をしていたと思う。
利吉もいつも通りで、特に機嫌が悪いわけでもなく、きり丸に至っては上機嫌だった。
店に着くまで鬱陶しい客の相手をしなければならないのかと思っていた時間が、突然利吉と楽しく話す時間に変わったのだ。
これを喜ばずしてどうするというのだろう。
しかも客の方は、明らかに外見で自分を上回っている利吉の登場に気勢をそがれたようで、 この場はすごすごと退散してくれた。
助かったという気持ちは大きかったけれど、それを除いたとしても、利吉といる時間は楽しかった。
しかも売れっ子のフリー忍者だけあって、よく気が回り、話題も豊富な彼といるのは退屈しない。
けれど、じきにバイトの刻限が迫ってきた。

「それじゃ、利吉さん。そろそろバイトの時間なんで」
そう別れを告げたとき、今にして思えば、ふと利吉の顔が曇ったような気もする。
「角の茶屋の給仕だろう?」
「ええ、バイト代、結構良いんっすよねー」
機嫌よく笑うきり丸につられて笑うことなく、利吉の表情はどこか硬いままで。
「あの辺りで若い女の子が働くのは危ないんじゃないのか?」
「そりゃまあ、本当に若い女の子なら危ないかもしれないっすけど、おれ男だし。一応忍たまだし」
「…相手からは、ただの可愛い女の子にしか見えてなくても?危険性は認識してるのか?」
きり丸はこれまでのことを思い出しながら肩を竦めた。
「まぁ、やたらべたべた触ってきたがる客はいますけど、それだけだし。 っていうか、知らずに男にべたべた触ってるって何か阿呆らしいなあって思ったりもしますけどね。 とりあえず本格的に待ち伏せとかはまだされてないし、待ち伏せされても逃げたらいいやー、なぁんて…」
あっけらかんと笑った途端、パチンと頬に軽い衝撃が来た。






「何か怒ってたみたいなんですよね。でも別に悪いこと言ってないし、 何で怒ってたのかわからないんですけど…あ、そういえば何でここでバイトしてること知ってたんだろ…」
性別云々のところは省き、かいつまんでやり取りを話していたきり丸は、ふと女将が肩を震わせていることに気付いた。
「って、何笑ってるんですか?女将さん」
袖で口元を覆ってくすくすと笑う女将は、漸く笑いを止めた。
いかにも楽しげな顔の彼女は、きり丸の額をつんと突付いた。
「きり子ちゃんも隅に置けないねぇ。そんな人が見張ってるなら、道理で悪い虫がつかないはずだわ。 そういえば、きり子ちゃん狙いの柄の悪そうなお客が最近減ったなと思って安心してたのよ。その人のおかげね」
「え?いえ、見張ってって、別に…今日だってたまたま…」
「あらやだ!今の話を聞いてると、たまたまとはとても思えないわよ。 それに、偶然でそんな都合よく現れるわけないでしょ」
「へ…?」
「その人、きり子ちゃんのことが心配で仕方ないなのね、きっと」
「…しんぱい?」
ぱちぱちと瞬きをしながら、舌の上でその単語を転がす。

馴染みのない言葉ではない。
どちらかと言えば身近なものだ。
例えば世話になっている担任の土井半助には、よく心配をかけているという自覚はある。
危険そうなバイトに手を出すと、「またお前は!」と怒りながらも毎回心配してくれている。
乱太郎たちは組の友人たちだって、そういうときは「駄目だよ、きり丸!」と焦ったり慌てたり怒ったりしながら、 結局は心配をしてくれるのだ。
つい銭に目が眩んで、多少危険な仕事ぐらいなら引き受けてしまう自分だが、それぐらいわかる。ちゃんと理解している。
わかっているからこそ、これでも仕事はある程度選んで、自分が危険だと思ったものは受けないようにしているのだ。
ただ、危険だと線引きをする基準が、きり丸と、半助や乱太郎たちとでは若干違うようで、 だから結局彼らにこっぴどく叱られることになるわけだが。

「で、でも利吉さんは…」
きり丸はもごもごと呟いた。

彼らと利吉とは違う。
半助は担任であり、休みの間面倒を見てもらっている保護者のような人。
乱太郎たちは、同じ釜の飯を食い、ともに危機を乗り越えたり馬鹿をやらかしたりしながら同じ道を進む大切な友人。
けれど利吉は違う。きり丸から見た利吉は、忍者としての先輩でもあり、 密やかな憧れでもある。あくまでもきり丸から見た場合、だ。
利吉からすれば、父親の担当する生徒のうちの一人でしかない。
それなのに、自分ひとりを心配してわざわざ様子を見に来た、などと有り得るだろうか。
「ふぅん。きり子ちゃんのいい人は利吉さんっていうの?そんないい人がいるなら、今度連れてらっしゃいな。 お茶ぐらいは出すから」
「い、いい人…!?」
絶句するきり丸の様子をどう受け取ったのか、ころころと笑った女将は、 丁度そのときやって来た客の呼び声に応えて店の表に出て行った。











その日、店じまいまで手伝ったきり丸が茶屋を出たのは日が沈んでからだった。
いつもは特に何かを気にすることなく家路を急ぐのだが、今日は少し歩いたところで足を止めてみた。
目を閉じ、耳を済ませて気配を探る。
まだまだ発展途上の忍たまで、一人前の忍者には遠く及ばない。
それでも厄介ごとによく巻き込まれるは組の一員として、実戦経験と勘はかなりのものだ。
きり丸の瞼がぴくりと反応した。
そのまま数秒。
ようやく目をあけたきり丸は「嘘だろ…」と呟いた。

まず最初に引っかかったのは自分に向けられる、あまり良くない類の視線。
夜、この界隈には柄の悪い男どもがたむろい、客引きもそこかしこに立っている。
そんな環境だからこそ、その視線のうちのいくつかがまだ子供の自分などに向けられているなんて今まで想像もしなかった。
一度気付いてしまえば決して無視できない、絡みつくような視線。
恐ろしいというより、本能的に不快感を覚えるような気持ち悪いそれ。
けれど思わずきり丸がぞくりと身を震わせた瞬間、その視線が一瞬で消えうせたのだ。



茶屋での女将の言葉に、きり丸は「まさか」と思った。
今も、まさかと思いながら、一応何となく気配を探ってみただけだった。
だが、実際に自分に向けられる、善意ではない眼差しが存在していた。
そして、それは自分の元に辿りつくまでに消えた。恐らくは誰かの手によって。

これも、偶然、ではないのだとしたら。
女将の言うことが当たっているのだとすれば。



「……利吉、さん…?」
躊躇いながら呟いた瞬間、背後に気配を感じた。
先ほどのようは嫌な感じのようなものではなく、落ち着ける、きり丸の知っている気配。
振り返ると、仏頂面の利吉がそこに立っていた。
流石に一流の忍者だけあって、今まで気配を感じるどころか、どこから現れたかもわからなかった。
それでもこの状況では、先ほどの視線が消えたことと、今ここに利吉がいることが無関係だとは思えなかった。
「その…あり、がとう」
それだけをやっと伝えると、利吉はふうと息を吐いた。
今まで影から助けていたのだと認めることも、否定することもなかった。
きり丸の前に自ら姿を表すつもりはなかったが、それでもここにいることを隠すつもりもなかったというところだろうか。
「自分で思ってるよりずっと危険だってことに、気付いた?」
「…はい」
大人しく頷くと、衣擦れの音がした。
目を上げると利吉がすぐ目の前にいた。腰を落として、目線を合わせてくれている。
予想より近い位置にある端正な顔に何となくどぎまぎして、きり丸は視線を彷徨わせた。
慌てて話題を探す。
「あ…、でも、やっぱり授業料払わなきゃいけないから、バイトは続けなきゃいけないし…えっと、 明日からもっと気をつけますから…」
あたふたと言うと、小さく空気が揺れた。
利吉が、溜息とも苦笑ともつかない息を漏らしたのだとわかった。
「わかってるよ。君が危険なバイトに手を出すのを止められないのは、納得はできないが理解はしてる」
「利吉さん…」
「だがきり丸。せめて、これだけは約束してくれないか。 決して無茶はしないこと。危ないことからは極力遠ざかること。どうしてもそれが無理なら」
利吉はきり丸の両肩をぎゅっと掴み、顔を覗き込むように先を続けた。
「せめて、私の目の届くところにいてくれ。…頼むから」
きり丸は零れ落ちそうなほどに目を見開いた。
利吉は、今朝きり丸の頬を叩いたときと同じ険しい表情をしている。
けれどその顔はよく見ると、怒ったような、悲しそうな、困ったような、複雑そうな色を浮かべていた。
様々な感情がない交ぜになった表情の中、間近で見た瞳は、ただ一つの感情を雄弁に映し出していた。

茶屋の女将さんの言葉が脳裏に甦る。
『その人、きり子ちゃんのことが心配で仕方ないなのね、きっと』
もう一度、呆けた自分の顔が映っている利吉の瞳を、じっと見る。

あなたのことが何より心配なのです。

目の前の真摯な目が紛れもなくそう言っていることに気付いて、きり丸は顔を真っ赤に染めた。
















2008.07.06

利吉と二人きりの時のきり丸の一人称って、どっちだ…?
とかいうところに盛大につまづきながら書いた話。利吉さんストーカー疑惑。







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