忍術学園の一年は組、特にあの三人組とは不思議と縁があるようだと気付いたのはいつだったか。
元々、父である山田伝蔵の教え子である彼らと接する機会は何度かあった。
だが、それ以外で出くわす回数もどんどん多くなっていた。
そうなると、一括りに父親が担任をしている生徒、ではなく個別に認識するようになる。
礼儀ただしく人当たりも良い、優しい性質をもった乱太郎。
少々鈍いが、その大らかさで周囲を和ませるしんべヱ。
そして、きり丸。
彼に対する最初の頃の印象は、実のところ、目端が利くが、擦れていて扱いづらそうな子供。そんなところだった。
銭への執着心と、何より、友人たちと馬鹿な真似をよくやっているが、ふとした折にのぞかせる冷めた表情に、
そう思い込んでいた。
よく三人でつるんでいるのは、尖っている彼と、
丸く穏やかな二人とで調和が取れているからだろうと、そんなふうに思っていた。
―――その日までは。
◆ ◇ ◆
利吉は山道を駆けていた。とは言っても仕事ではない。
仕事の区切りがついたとき、その場所が割と忍術学園に近いことに気付いた。
ならば、良い機会だから、父親である伝蔵に次の休みこそは家に帰ってもらえるよう頼みに行こうと思い至った。
というのも、自分はこの後にまた長期の仕事が入ってしまい、どうやらまた暫く帰れそうもなかったからだ。
せめて父だけでも帰ってもらわないと、母親の怒りが今度はどこへ向かうやら。
今は父に送られているあの怒りの差し入れも、じきにこちらにも送られてくるんじゃないかと思うとぞっとする。
仕事中の利吉は各地を飛び回っているため、正確な所在などわかるはずもないのだが、
どうしてだが突き止められそうな気がしてしまう。
「忍術学園は数日後には休みに入るはずだ。今回こそ…!」
そろそろ忍術学園も近い。決意も新たに、さらに速度を上げる。
後方に流れていく景色の中、ふと見覚えのある影が視界を過ぎった。
「あれは……きり丸、君…?」
利吉は反射的に足を止めた。
咄嗟に声をかけずに木陰から様子を窺ったのは、忍者としての直感だったのかもしれない。
声をかけるような空気ではない気がしたのだ。
きり丸は一人でぽつんと立っていた。
ここは学園から近い。
実技の授業は学園の外で実施することもあるだろうから、今この場所に彼がいることはそれほど不自然だと思わなかった。
けれど、一人というのは珍しい、と利吉は思う。
大抵いつも乱太郎やしんべヱと一緒だったはずなのに。
「一体何をしてるんだ…?」
きり丸は立ち竦み、地面を見ている。
「何だ…?」
彼の視線を追う。
「……猫…?」
彼の前には子猫がいた。
体の小ささと、か細い声から、まだ生まれてそう日が経っていないのではないかと思われた。
拾って帰るつもりだろうか。
しかしどうにも彼が生き物を拾って育てるというのは想像が付かない。
まだしも売り払うという方が納得がいくが、生まれたばかりの子猫では鼠を取ることもままならないし、
この辺りの町では売れなさそうだ。
愛玩動物を育てるほど裕福で時間のある人間などそうごろごろいるものではない。
利吉が身を隠したままいろいろ推測しているうちに、きり丸がしゃがみ込んだ。
そうして懐から取り出された苦無に利吉は思考を中断し、思わず息を呑む。
まさかという思いと、止めなければという思いがぶつかったが、結局見守ることにした。
苦無を振り上げた彼の瞳が残虐なものであったなら迷わず止めていただろうが、
彼の眼差しは痛々しいほどに真剣そのものだった。
ざざ、と周りの緑が風に鳴いた。
合わせるように、子猫が不安げに「みぃ」と小さく鳴いた。
暫しそのままの体勢で猫を見下ろしていたきり丸は、振り上げた苦無をやがて力なく下ろした。
ぽつりと呟く。
「…ごめん」
しゃがみ込み、猫をそっと抱える。
「ごめんな。楽にしてやれなくて。…でも、もしかしたらおまえも、
誰か優しい人が拾ってくれるかもしれない。だから…頑張れ」
優しい手つきで猫を地面に下ろすと、
きり丸は後ろ髪を引かれるのを振り切るように学園の方に向かって駆け出していった。
完全にその姿が見えなくなった頃、利吉は木陰から姿を現した。
足元には先ほどの子猫。
指先で軽く撫でると、にぃと鳴きながらよたよたと擦り寄ってきた。
親猫とはぐれてしまったのだろう。あるいは捨てられたか。
いずれにせよ、こんな山の中では確かに生き延びられそうもない。
餓えて果てるか、あるいは他の獣に襲われてお仕舞いだ。
「楽に、か」
先ほどのきり丸の声が脳裏に甦る。
もう一度子猫を見下ろして、困ったなと眉根を寄せて考え込む。
わかっている。年中飛び回っている自分には面倒をみてやる余裕はない。
けれど、「ごめんな」というきり丸の辛そうな声が耳から離れない。
忍びのすることじゃないなと呟きながらも、利吉はその小さな身体を思わず拾い上げていた。
「そうか。きり丸がそんなことを…」
忍術学園の食堂で、利吉の向かいに座っておかずの残りをつついていた半助が、苦笑いを漏らした。
「…自分と重ねたんだろうな」
「え?」
「いや、…で、その子猫はどうするつもりなんだい?」
一瞬見せた苦笑いがどこか痛みを堪えるようなものだったから、利吉はそれ以上の追及を控えた。
「先ほど、町にいる知り合いに一時的に預けてきました。この後、家に連れて帰るつもりです」
今から家に帰るとなると次の仕事に遅れが出ることになるが、依頼内容を考えると、
その後ちょっと無理をすれば何とかなりそうだ、というのが先ほど達した結論だ。
「家にって…利吉君、家にはほとんど帰れないんじゃないのかい?」
「母に頼めば大丈夫だと思います。…まぁ、その前に私が家に帰って母にお願いしないといけないわけですが…」
苦笑しながら頭をかく。
飼ってもらえるかどうかはそれほど心配していない。
が、その前に、長い間家に帰らなかったことへの、お叱りを受けねばならない。それに関しては少し気が重い。
ふと近付いてくる気配を察した利吉は視線を戸口に流した。
「…誰か来ましたね」
食堂は一番込み合う時間帯を過ぎて、今は自分たちしかいない。
この時間から食べに来る生徒でもいるのだろうか。
「ああ、あの足音は…」
耳を澄ませていた半助が名前を言うよりも早く、小さな影が飛び込んできた。
「先生ー!」
「どうした、きり丸」
勢いよく飛び込んできた彼は、すぐに利吉の存在に気付き、会釈した。
「あれ、利吉さん、来てたんっすね。こんにちはー!」
「ああ、こんにちは。きり丸君」
挨拶をすると、たたたとこちらに駆け寄ってきたきり丸を思わず注意深く観察するが、
先ほどの憂いはどこにも見当たらない。
子猫のことは彼の中ではもう終わったこととして処理されているのだろうか。
まるっきり普段通りに見えるきり丸は、ひょいと半助の前の食器を覗き込んだ。
「うわ。あれからだいぶ経つのにまだ食べてなかったんすね。その練り物」
「うぐ…」
きり丸の直球に頬を引き攣らせる半助に、利吉はああなるほどと手を打った。
どうやらこの父親の同僚は練り物が大層苦手らしい。
道理で先ほどから、食べるでもなく箸でつつきまわしていたわけだ。
「きり丸ぅ」
急に猫撫で声を出した半助を、きり丸は半眼で見た。
「どーしよっかなー」
「そんなこと言わずに!頼む!また洗濯のバイト手伝ってやるから」
「本当ですか!?やったぁ!絶対ですよ?」
「ああ。…というか、結局いつも手伝ってるじゃないか…」
乾いた笑いを浮かべる半助の隣から手を伸ばしたきり丸が、練り物をぽんと自分の口の中に放り込んだ。
「美味しいのになぁ」と言いながら、もぐもぐと咀嚼する。
その様子をまだ少し頬を引き攣らせて見ていた半助が、
「そうそう、利吉君」
唐突に、利吉に向き直った。
「何でしょう。土井先生」
利吉は戸惑いながらも返事をする。
「さっきの話の続きだけど、やっぱり子猫は可愛いからね」
「は?はぁ…」
確かに子猫の話はしていたがいまいち繋がらない。そんな話だったか?と考えかけて、半助の意図に気付いた。
「子猫…?」
案の定、きり丸がぴくりと反応を返した。
「ああ、利吉君が、さっき学園の近くの山で子猫を拾ったらしくてね。実家に連れて帰るそうだ」
「本当?」
それこそ子猫のような丸い目が利吉にまっすぐに向けられた。
「…っ、ああ、母が丁度猫を欲しがっていてね」
あまりにまっすぐな視線にさらされ、咄嗟にそう言っていた。
とは言え、まったくの嘘というわけではない。連れ帰れば恐らく母親は可愛がるだろうという目算はあった。
「そーなの?」
きり丸は目を瞬かせる。けれどその表情がふと曇る。
「…でも、まだ子猫なら鼠とかは…」
「ああ、違う違う。鼠捕り用ではなくて…ほら、父上も私もなかなか家に帰れないだろう?だから寂しいらしくて」
「利吉さん、わかってるなら帰ってあげればいいのに」
「こら、きり丸」
手を挙げた半助に気付き、きり丸は慌てて一歩身を引く。
「あ、いえ、利吉さんは仕事で忙しいから仕方ないですよね!えーと、そう!山田先生とか…」
「山田先生が帰れないのはおまえたちの補習のせいだろう!」
手を伸ばした半助が軽くきり丸の頭をはたいた。
「いてっ!」
「何を言うか。拳でないだけ有り難いと思え」
「ひどいっすよー!せっかく練り物食べてあげたのに!」
「…それは感謝する。ところでおまえ、何かわたしに用事だったんじゃないか?」
「あ、そうそう。忘れてました。六年生の先輩がたが、次の授業で火薬を使いたいって言って先生のこと探してましたよ」
「なにっ!?それを早く言わんか」
また殴られるかもしれないと想定したのか、
既に戸口のあたりに下がっていたきり丸は、「へへっ」と笑いながら手を振った。
「ちゃんと伝えましたからね、先生!利吉さん、また仕事の話聞かせてくださいねー!」
それだけ言うと、きり丸は脱兎のごとく走っていった。
「だから忍者に仕事の話をねだるなとあれほど…」
半助はぶつぶつと言ってはいるが、口調ほど怒っているわけではなさそうだ。
利吉も、困惑よりも微笑ましさが先に立った。
目をきらきらさせたは組の生徒全員に仕事内容を聞かせてと詰め寄られるときは、
微笑ましいなどと言っていられないのだが、今はどうしてだかそんな気分だった。
子猫が望んで連れ帰られるのだと知ったときのきり丸の目を見たからかもしれない。
どこか不安を隠しきれなかった瞳が、一瞬、見とれるほど明るくぱっと輝いた。
口では何だかんだ軽口を叩いていたが、この表情を見てしまえば小憎らしいなどと思えるはずもない。
彼は年の割に思ったことを隠すのが上手いが、それでも隠し切れないあたりが子供らしいということなのだろうか。
目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだ。
彼がどれだけ、あの子猫のことを気に病んでいたのか、その幸せを願っていたのか、あれでわかってしまった。
「…いい子ですね」
ぽつりと呟くと、半助は、
「口は減らないがね」などと言うが、
後ろ姿を追ったままの穏やかな眼差しは、利吉の言葉を肯定していた。
「土井先生」
「ん?何だい?」
「先生から見て、あの子の印象はどんな感じですか?」
「きり丸の印象?そりゃあもう、銭が大好きで、減らず口で…」
苦笑しながらぺらぺらと話し始めた半助は、利吉の真剣な表情を見てふと笑いを収めた。
少しの間があった。
「…優しくて、とても強い子だよ」
「そう、ですか」
「今のも多分、伝言の方がついでで、練り物が食べられないわたしを心配して見に来たんだろう」
これじゃ立場が逆だなぁと半助は口の端を持ち上げた。
「は組は皆優しい子たちばかりだが、あの子は…表面上はともかく、
他人の痛みに一番敏感で、特に身内に対しては誰より優しいだろうね。
文字通り優しくするという意味じゃなく、相手のことを考えて行動するという点で」
利吉は黙って半助の言葉を聞いていた。
昨日までなら異論を挟んでいただろうが、今ならこの言葉にも納得できる。
「…っと。話しこんでいる場合じゃなかった。火薬庫を開けて来ないと」
半助が思い出したように立ち上がった。
利吉もあわせて立ち上がる。
「すみません。お邪魔してしまって」
「いや、こちらこそ忙しなくてすまないね。…それから子猫のこと、ありがとう」
「いえ、私がやりたくてやったことですから。…本当に、あの子猫を拾って良かったと思います」
本心からそう思った。
自分が動物を拾うことなどまずない。今回はむしろ例外だ。
子猫を可愛いとか助けたいと思う気持ちは持ち合わせているが、全て助けていてはきりがない。
それに、仮にも忍びである自分は情に溺れるわけにはいかないから、弱みは少ない方がいいに決まっている。
そもそも、全ての弱い命を助けられるほどの力もない。
けれど今回だけは、純粋に良かったと思える。
彼が一瞬見せた笑みが迷いも後悔も消し去った。
あれほど、幸せであることを望んでいる者がいるのだ。それだけで、助ける理由としては充分だと思えた。
「…自分でも、忍びとしては少し甘いと思いますけどね」
「それを言われると、わたしも耳が痛いな。だが、時には必要だと思うんだよ、
そういう気持ちは。…自分が人であることを思い出させてくれるからね」
「…そうですね…。……ところで土井先生」
「何だい?」
「そろそろ授業が始まってしまうのでは…?」
「そうだった!」
慌しく去っていった半助を見送ってから、利吉も席を立った。
山で見かけたきり丸のその後の様子が気になって、
本来の目的であった父親を探す前に半助と話しこんでしまったが、これで正解だったなと思う。
「父上へのお願いはまた次の機会でいいか」
とりあえず今から自分が帰るわけだし、母にはそれで勘弁してもらおう。
それに、忍術学園が休みの間に何とか仕事の都合がつけられたら、家にきり丸を呼ぶのもいいと思う。
どうやら素直でないらしいあの子供のために、バイトの話でも持ちかけてやれば、喜んでやって来るだろう。
そして可愛がられている子猫を見て、こっそり顔を綻ばせるのだろうと思うと、ふわっと心が温かくなった。
「君はおもしろい子だな、きり丸」
楽しそうに笑うと、利吉は忍術学園を後にした。
父親への用事がなくても、また仕事の合間に立ち寄ってみようと思いながら。