まず一歩
迂闊にも手傷を負ってしまった。 傷口を手拭いできつく縛った鉢屋三郎は、傷の痛みでなく、自分への苛立ちに顔を顰めた。 学園長から言い渡された忍務中の、不慮の事故とでも言えばいいだろうか。 忍者としての成績は優秀で、特に変装には定評がある。 失敗するとは思っていなかったし、実際、忍務自体は成功した。 ただ少し運が悪かった。 偶然の連鎖で、気付けば敵に囲まれる羽目になった。 多勢に無勢。ここは逃げるが勝ちと、間一髪で姿をくらますことには成功したが、 敵が投げた手裏剣を一つばかり避け損ねた。 深い傷ではないが、腹立たしいことに眠りと痺れを誘発する薬を塗ってあったようだ。 何とか意識は保っているが、そんな状態で道なき道を選んで逃げたものだから、 覆面は破れ、その下の顔――もちろん変装の面だ、も頬の辺りに亀裂が入っている。 薬が塗られていた可能性に気付いた瞬間、傷口ごと薬を吹っ飛ばそうかとも考えたが、 残念ながら今は火薬を所持していなかった。 とにかく、まずは絶対に人が来ないところに落ち着いて傷を診なければと辺りを見回した三郎は、不穏な気配に気付いた。 気を抜いたら崩れそうな膝を拳で押さえ、気配の方へ注意を向けて様子を窺う。 どうやら子供が絡まれているようだ。 絡んでいる相手は身のこなしはそれなりで、 三郎の見たところ、「忍者崩れの、けれど所詮はごろつき」というところだった。 一瞬迷った。 忍術学園では、どんなときでも完璧に変装してきた。誤って素顔を見られたことなどない。 そんな自分が、素顔を見られてしまうかもしれないこんな最悪のコンディションで人前に出るわけにはいかない。 けれど、絡まれている子供の顔が見えた瞬間、三郎は地面を蹴っていた。 同級生の雷蔵や先輩の善法寺ほどお人好しではないが、それでも学園の下級生が困っていたら見捨てるつもりはない。 これでも意外と面倒見は良いのだ。 しかも、よりによって今困っているのは個人的に気に入っている子だ。 どうして飛び出さずにいられるだろう。 勝負は一瞬だった。 三郎は子供の前に降り立って、立ちはだかっていた男に当て身を食らわせた。 本来忍者は影に徹するべきであって表に出るべきではないと思っている三郎が体術を使ったのは、 単に手っ取り早いという理由だ。 自身の体調を考えると、策を弄する時間はなかった。 気絶した男から視線を動かし、背後の子供に目を向けた。 「大丈夫か、きり丸」 きり丸は、突然自分を庇うように現れた人影に目を見開いていた。 あまりにぽかんとした表情に、ああと得心した。 さすがに忍務中に、いつものように雷蔵の姿を借りるわけにもいかない。 何かの間違いで敵に顔を見られたときのために、別の変装をしている。 きり丸にとって自分は、学園の先輩でなく、突然現れた見知らぬ人に過ぎない。 その見知らぬ人間に自分の名前を呼ばれたものだから混乱しているのだろう。 そこまで考えたところで、ぐらりと頭が揺れた。 ああ、まずいなと思った。他人事のように危機感がなかったのは、 完全にまわってきた薬のせいで朦朧としていたからかもしれない。 ここで意識を失ってしまえばきり丸に素顔を見られてしまうかもしれない。 すぐに一人になれる場所に逃げなければ。 けれど足はもう一歩も動かず。 「え…?ちょ…!?」 驚き顔のきり丸の前で、三郎はどさりと倒れこんだ。 意識が浮上したと自覚した途端、三郎は一気に身を起こした。 既に薬の効力は切れているらしく、頭の中はすっきりしていた。 麻痺もない。それほど効能の高い薬では――否、こちらの立場から見れば、 さほど悪質な薬ではなかったようだ。 身を起こした三郎がまず初めにしたことは、顔に手をやり自分の変装を確かめることと、 周りをざっと見回しての現状確認だった。 変装の方は、倒れる前とまったく同じ状況だった。 そこにまずほっとする。 それにどうやらここは部屋の中らしい。 長屋の中ではなく、小さな小屋だろうと部屋の大きさや壁の具合、外の音から推測する。 「ということは……きり丸が?」 ぽつりと呟いた三郎は、気配を感じ、はっと戸口に目を遣った。 がらっと引き戸を開けて入ってきたきり丸は、三郎が起き上がっているのを見るとぱっと顔を輝かせた。 「鉢屋先輩!もう大丈夫ですか?」 「きり丸…ここへは君が?」 「ええ。すぐ近くに無人の小屋があったもので…荒れようから見て、もうだいぶ前に人の手を離れたみたいっすね」 「そうか。よく運べたね」 「はい。まぁぼく一人じゃ無理っすけど、てこと車を使ってなんとか」 「なるほど」 三郎は口元を綻ばせた。 どうしてこの”見知らぬ顔の男”が”鉢屋先輩”だとわかったのかという問いは愚問だろうと喉の奥に引っ込める。 前々から思っていたが、おちこぼれのレッテルを貼られているにも関わらず、 この子供は存外目端が利く。 その上、場慣れしているのか神経が太いのか、臨機応変に物事に対処する力もある。 そんな人間なら、少し考えれば自分の正体などわかるだろう。 丁度顔に傷ができて、これが変装であるとすぐにわかる状態になっていることだし。 変装をしている、忍者と思しき人間で、このぐらいの背格好、おまけに自分のことを知っているとなれば、 答えは容易く出る。 「鉢屋先輩、さっきは助けてもらってありがとうございました」 「ああ、…と言っても、今の状態ではこちらの方が礼を言わなければならないような気がするな」 苦笑しつつ、三郎はきり丸をじっと見た。 「ところで、どうして、素顔を見なかったんだい?せっかくの機会だったのに」 「え?」 きょとんと、まさに鳩が豆鉄砲を食らった顔で三郎を見返した後、きり丸は不本意そうに頬を膨らませた。 「そんなことしませんよ!」 「この面の中の素顔を知りたい人間は意外と多いよ。儲け話に繋がるかもしれない。それでも?」 意地悪く問うと、きり丸は眉をはの字にして叫んだ。 「もー!それ言わないでくださいよ!考えないようにしてたのにー!」 「え?」 それから拳を握ると、今度はぎりっと眦を上げる。 「どケチにとって、儲け話を逃すってことがどれだけ屈辱的なことか、わかります!?」 「え、いや、あー…」 逆に勢いに押される。 さすがに銭が絡んだときのきり丸は何と言うか物凄い。 「とにかく!いくらおれでも、助けてもらっといてそんなことしませんよ」 怒りながらも、きり丸は三郎の隣に腰を下ろして傷口を観察し始めた。 よく見るときり丸の手には手拭いと薬草が握られている。どうやらこれを調達しにいっていたらしい。 傷口を見ているきり丸にじっと視線を送っていた三郎は、突然「ふぅん」と面白くなさげに鼻を鳴らした。 「この治療まで込みで、貸し借りなしってことかい?」 「は?」 一瞬、きり丸の動きが止まった。 が、すぐにそっぽを向いて、「何でそうなるんですか!」と返してきた。 「助けてもらっといて素顔を暴くなんてことしないとは言いましたけど、 だからって別に、助けてもらわなかったら暴いてたってわけじゃないんですよ」 「似たようなものだろう」 「全然違いますよ!嫌いじゃないからって好きとは限らないのと同じぐらい違います」 「そうかな。借りができたから返した、というようにも聞こえたが」 「…あー、もーっ!」 きり丸は手に持っていた薬草を放り投げた。 「だから!どうしてそんなに絡むんっすか!」 三郎は暫し沈黙した。 (絡む?) (誰が?――自分が) 自問自答する。 (誰に?――きり丸に) 言われてみれば確かにこれでは絡んでいるも同じだ。 (なぜ――) いや、これでは絡むというよりももっと… 「鉢屋先輩ってもっと冷静で大人なイメージあったんだけどなぁ」 ぼやくきり丸に、三郎は今の自分にしっくりくる言葉を思いついた。 「こんな”駄々っ子”だとは思わなかったって?」 「そこまでは言いませんけどー。仮にも先輩に対して失礼ですしー」 明らかに失礼なことを言うきり丸は、どうやら少し臍を曲げてしまったらしい。 三郎は笑い出した。 突然笑い出した自分を気味悪そうに見ているきり丸に、まずは厚意を疑ってしまったことを謝罪する。 笑ってしまったのは、自分の心に対してだ。 こんなに幼稚で素直な感情がまだ自分の中に存在していたとは思わなかった。 それが何やら可笑しくて仕方がない。 「いや、本当にすまなかった。…絡んでしまったのは、ちょっとショックだったからだ」 「…ショック?鉢屋先輩が?」 「ああ。ほとんど誰も見たことがない素顔だよ? 普通、気になるものだろう?だが君はそうじゃなかった。つまり、興味がないということだ」 きり丸は意表をつかれたようで、顎を引いて黙りこくった。 さあ、どう返す?と三郎がきり丸を楽しげに見ていると、きり丸はやがてぼそりと呟いた。 「……おれで遊んでるでしょ。鉢屋先輩」 「ははは」 「ちょっと先輩!一瞬、本気で心配したじゃないですか!」 赤くなって怒鳴るきり丸の表情には、ほんの少し安堵の色が見える。 どうやら本当に、自分を傷つけたのではないかと心配したようだ。 なるほど。まったく興味がないというわけでもないか。と三郎は分析する。 ならば、これからその興味の度合いを引き上げていけばいいわけだ。 そもそも、今興味がないなら、どうにかして興味をもたせてやるというのが本来の自分の姿だ。 「聞いてます?だから、おれは鉢屋先輩の玩具じゃ…」 ふときり丸の言葉が途切れる。 どうやらそこで初めて気付いたらしく、一瞬後に慌てて訂正する。 「っと。じゃなくて、ぼく」 三郎はくっくっと楽しげに笑った。 「いいよ。おれで」 「いや、そういうわけには」 きり丸が、友人や気の置けない者へは「おれ」、目上の者に対しては「ぼく」と一人称を使い分けていることを知っている。 ならばまず、彼の方から一歩近付いてもらおう。 「その方が嬉しい。できればそうしてくれ」 自分の前でだけは、とは心の中だけで付け加えて。 本人すら気付かないうちに一歩近付かせて、そうして次はこちらから。 「なぁ、きり丸?」 まずは一歩。 三郎は、他人の顔のまま、けれど他人の真似でない”自分自身の表情”でニッときり丸に笑いかけてみせた。