愛しき闇の産声





靴音が廊下に反響する。
堅い石でできた壁には、蝋燭に照らされた影がちろちろと揺らめいていた。
長い長い廊下を歩く。
この一番奥の一室に、目的の人物がいることを楊漸は知っていた。
決して華美ではなく、洒落っ気など欠片もない建物だったが、これこそが天界でも最も堅固な岩牢だった。

楊漸の姿を見て、扉の前に立っていた番人がすかさず礼を取った。
後ろに控えていた木叉がさっと動いて前に出て、番人と二言三言言葉を交わし、扉を開けさせるのを、 楊漸はのんびり構えて眺めていた。
木叉は、自分自身はもちろん、楊漸がここへ来ることもよく思ってはいないようだったが、 副官という立場上、楊漸の意向にそう逆うことはない。ただ視線だけは時折咎めるような色を乗せてはいるが。
今もどこか物言いたげな視線を無視して、楊漸は部屋の中に入った。
一人の男の姿が目に入る。
「やあ、閻魔王。気分はどうかな」
「あまり良いとは言えないな」
冷静な声が返ってきた。この状況にありながら、余裕を失うことのないこの声が、さらに楊漸を苛立たせる。
「…また妙な術をかけにきたのだろうが、私に術はきかんぞ。無駄だ」
虚勢ではなく、事実だった。
捕らえられ、力を封じられてなお、彼は王であり続けた。
最強と謳われただけのことはある。力だけはかろうじて封じているが彼の身体に備わる生命力や術への耐性、 彼の頭脳、そして精神力にはまったく手が出せない。
力自体も強いが、さらにあらゆる術を駆使する彼には、 天界でも有数の力を持つ楊漸ですら術をかけることに成功しなかった。
せめてその強靭な精神に少しでも揺らぎができれば、その隙をついて術をかけることも可能だったが、 動けない彼の肩を槍で抉ったときですら、彼は少し頬を歪めただけで、精神自体は波立つこともなかった。
けれど。
「いやだなあ。今日は話をしに来ただけだよ」
楊漸はゆったりと笑みを浮かべた。
今日は成功するという奇妙な確信があった。

考えてみれば、簡単なことだった。
隙を作りたいなら、弱みをつけばいい。
鋼のような精神をもっていたとしても、心の奥までも固いわけではない。
奥底の一番柔らかい部分を突き刺してやればいいのだ。冥界の王たる彼の、 その柔らかな部分を、――彼の部下ですら知らないであろうそれを、幸運にも自分は知っているのだから。


「話だと…?私と?」
訝しげな声に、楊漸は笑みを返した。
「そうだよ。ちょっと大聖の話でもしようと思って」
「その斉天大聖を殺した私と?…馬鹿な」
「だって、話そうにも他に話せる相手がいないんだよね。 斉天大聖は天界では裏切り者ってことになってるから、そうそう話題に乗せられないし、 第三勢力にくだった連中はもういないし」
さり気なく付け加えると、閻魔王の目元がほんの僅かにぴくりと震えた。
それを確認しながら、楊漸はさも今思い出したかのように続けた。
「そうそう。言い忘れてた。戦争は終わったんだよ。この知らせは、君にとっても私にとっても嬉しい便りだから、 いくら君が敵とはいえ、伝えてあげようと思ってね」
「……そうか」
「あれ?詳しく聞きたくはないの?」
「……」
「冥界の王なんだから、当然、冥界がどうなったか知りたいよねえ?教えてあげるよ。 妖怪たちはまた冥界に戻ったよ。ちなみに犠牲者は、君が知っているときからさほど増えてはいないはずだ。 どうだい?安心したかい?」
「…なぜ、そうなった」
これまで、返答以外の言葉、特に自分から問いを一度も発さなかった閻魔王が、初めてそう問いかけてきた。
内心で快哉を叫びながら、楊漸は思わせぶりに間を置いた。
「…それは、聞かなくてもわかっているだろう。この戦争が、天界と冥界、 どちらかの全滅なくして終わるということは、第三勢力が勝ったからに他ならない。…いや、勝ったとは言えないか」
「どういうことだ?」
閻魔王の探るような視線がこちらを貫いてきた。
捕らえられてから、彼が何かに注意を向けるのも初めてだった。
やっぱりそうか、と脳裏で思いつつ、それはおくびにも出さない。
「主だった連中は皆死んでしまったからね。中でも金蝉子は………あれは、ひどかったな」
痛ましいものを思い出すように沈痛な表情を作ると、唸るような声が間をおかずに返してきた。
「金蝉子は釈迦如来の力を持っていた。まさか倒されるわけがあるまい」
「その力を使えていればね。…ちなみに、天界と冥界は彼女の力で戦力を削ぎ落とされて、 もう戦争を続けることはできなくなっていたけれど、冥界は彼女のことだけは許せなかったらしい。 王を殺されたという恨みがあったからね」
「馬鹿な…」
「そう、彼女の振り下ろした剣が君を刺したといっても、命までは奪わなかった。 もっとも、あのまま放置されていれば、いかに君とは言えとっくに死んでいただろうけどね。 結果的に君は天界に連れてこられ、こうして生きている。でも、それを知る者は誰もいない。 つまり、金蝉子が君を殺したと思っている。それに彼女の性格上、釈明はしなかっただろうし。 というより、伝え聞いたところによると、彼女自身も君を殺してしまったと思っていたようだけど」
「まさか…」
「彼女には君を殺したという罪の意識があったし、元々が、 自分のために他人を傷つける力を振るえるような仙じゃないから……」
楊漸は辛そうな表情で瞑目し、さも口にしたくないといった素振りで付け加えた。
「私たちが駆けつけたときにはもう遅かった。…酷い惨状だったよ。 無抵抗のまま妖怪どもに嬲り殺されたんだろうね。美しかった彼女の面影はどこにも…」
「…っ、やめろ…!」
閻魔王が声を荒げた。
何が起こっても凪いだままだった精神が、確かに波立った

「…かかったね」
楊漸は目を開け、笑い声を上げた。
「な…」
自分の中に発動した術に気付いたのだろう、閻魔王は信じられないというように目を瞠り、 その次の瞬間には床に崩れ落ちた。
意識は既にない。

暫く無言でその様を見下ろしていた楊漸の顔に、ゆるやかに喜色が浮かぶ。
「うまくいったな。これで目覚める頃には自分が閻魔王だという記憶は封じられ、 代わりに斉天大聖としてのベースができあがっているはずだ。細かい思い出話なんかは、おいおい刷り込んでやろう」
「よ…楊漸様…」
副官の掠れた声に振り返ると、信じられないものを見る目とぶつかった。
けれども楊漸はそれに動じることなく、にこりと笑みを向け、 「帰ろうか、木叉」と言うと、軽やかな足取りで牢獄を後にした。






「…楊漸様!どういうおつもりですか!あのような嘘を…っ」
岩牢を出て、宮殿に戻ってから、漸く木叉は口を開いた。
今まで抑えていたものが一気に吹き出たような勢いだったが、楊漸はそれに対して、欠片も怯むことはなかった。
「だが、完全に嘘というわけでもなかったろう?」
楊漸は微笑さえ湛えて、木叉を振り返った。
「第三勢力に加担した者たちは全滅したわけではないけれど、金蝉子が死んだのは事実だ。 冥界の軍勢とやりあって負傷したこともね。もっとも、相手は冥界だけでなく天界の軍も入っていたし、 そいつらにしたって彼女を殺せたわけではないけれどね」
腕を組んで目を細めた彼は、さらに口角を上げた。
「…ずるいよねえ。金蝉子は。自分でさっさと楽になっちゃうなんて。 しかも大聖のように全てを失ったわけでもない。 魂を核にした封印術を施したから数百年は生まれ変わることができないらしいけど、永遠ではないからね。 …まあ、でも考えようによっては好都合かな。永遠に眠られちゃ、何か一言、言うこともできないからさ。 …生まれ変わってきたら、彼女も丁重におもてなししてあげないと」
「楊漸様…!あなたが彼らを許せない気持ちはわかりますが、しかし、だからと言ってこのようなことは…」
「ああ。そういえば木叉は私が閻魔王のところへ行くことに反対だったね。 大丈夫。術もきいたことだし、閻魔王にはそろそろ地上に移ってもらおう。観音にも打診されているし。 あの男を天界に置いておくことに恐怖を覚えるお偉方が少なからずいるそうだよ。まったく、臆病だよね」
「俺は、そういうことを言っているわけでは…っ」
「そうそう。丁度ね、地上に良い場所があるんだ。岩山なんだけど、あそこに観音の封印をかけてもらえば、 今の岩牢よりも堅固な檻になるだろうね。閻魔王には、そこで数百年まどろんでもらおうじゃないか。 その先に来る絶望をより高めるために、今は平穏を彼に与えてやろう」
これからの計画を練りながら、楊漸はくすくすと笑う。
「…楊漸様…」
先ほどの勢いをすっかりなくした木叉は、縋るような目で何か言いかけて、そして諦めたように首を振った。
何事もなかったかのように、優秀な副官の顔に戻った彼は、一礼をすると部屋を退出していった。



楊漸は木叉の出て行った扉を何とはなしに見た後、ふうっと視線を巡らせた。
視線は開かれた窓の辺りで止まる。
霞みたなびく空、天から流れ落ちる滝、いつも通りの典雅な光景だったが、 今の楊漸にとっては何の価値もなかった。
美しい天界の景色を素通りして、焦点のずれた視線はどこか遠くを見詰めていた。
表情の抜け落ちた顔で、口だけが動き、平坦で無味乾燥な声がぽつりと漏れる。
「ともかく、これでお膳立ては整ったわけだ。あとは…」

そこで不意に、仮面のようだった顔に表情らしきものが上った。
口の端がにいっと上がる。
「…早く、早く」
待ちきれない子供のように楽しげな声が、何かに語り掛けるようにささやく。
「早く、転生しておいでよ、金蝉子。君も一緒に遊ぼう。この、腐った世界でさ」
楽しくてたまらないと言わんばかりの声と、狂気を孕んだ瞳で、楊漸はそう言って笑った。







2009.11.15







タイトルは若干サントラを意識。
個人的に、閻魔王ルート(※くどいようですが超捏造です)にあたっては、
斉天大聖という存在と楊漸が欠かせないと思っています。











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