罪の色2
鏡の向こうで、黒と赤の色彩を持つ男がクッと皮肉げに笑った。
これらの色は嘗て持っていて、暫くの間失っていた、自分自身の存在と力を表す色味だったが、
今となっては、そういえばこんなだったか、という程度のものだ。
さしたる感慨があるわけでもない。
五百年という歳月は、自身の記憶を薄れさせるには充分すぎた。
けれどこの姿と、つい先日までの姿とを客観的に捉えるなら、色が変わっただけで、随分印象が違うものだと思う。
それ以外は、こうやって改めて見てみても、姿形も思考もそれほど変わらないのだが。
ただ髪と瞳の色が変わり、忘れていた記憶と力を取り戻した。その程度のことなのに、
天界のお偉方にとっては「その程度」で済ませられる問題ではなかったようだ。
事が終わるなり即座に手を下そうとした観音菩薩の行動は、彼自身の独断というよりは、天界上層部の総意なのだろう。
「ったく、あそこは相変わらずどうしようもねえな。俺は何も変わっちゃいねえっていうのに」
力と記憶を取り戻したからといって、昨日までの「悟空」から突然「閻魔王」に戻るわけでもない。
ぼやいてから、彼は表情をふと改めた。
「いや、そうでもない、か」
何も変わらなかったわけではない。
閻魔王として生きた過去と、悟空として生きている現在を比べることで、より鮮明に自分の望みを自覚した。
言い換えれば、悲劇で終わった過去があるからこそ、
今度こそは絶対に手離せないと心に刻み込まれたというところだろうか。
「けど、天界を攻める予定は、さしあたって無かったんだが…とは言え、話は通じそうにもねえしな。…どうするかな…」
冷静に呟く。
誰に聞かせるわけでもないのに言葉を敢えて口にするのは、自分自身にしっかりと言い聞かせるためだ。
閻魔王としての記憶を取り戻したとは言え、それは全て五百年以上前の記憶だ。
間に斉天大聖としての記憶を植えつけられたこともあるし、何より玄奘らと旅をした「悟空」の意識が強いため、
以前のような冥界の統治者としての強い責任感や使命感は湧き上がってこない。
逆に、こうやって常に自分に自分自身の立ち位置を言い聞かせておかなければ、
天界や地上界の方を身近に感じてしまいそうなほどだ。
だからと言って、天界をわざわざ滅ぼしに行く気が今のところないのは、決してそんな理由からではない。
できないのではない。必要性を感じないだけだ。
何しろ、嘗てとは己の中の優先順位が違う。
何よりも、一番優先されるべきものが変わった。
一番大切なものが、統べる世界から、ただ一人の人間に変わった。
彼女を手放さないために天界を滅ぼすことはできても、冥界の安寧のために天界を攻めることはもうできない。
そして、今天界に攻めこむことは、決して彼女の安全には繋がらない。理由などそれで充分だった。
ひとつの世界と秤にかけられるほどに、ただ一人を求める自身の心を既に知ってしまった。
もう、後戻りどころか、見なかった振りすらできない。
もう一度、何気なく目に映した自身の瞳の色は深紅。
以前は血の色だと思っていたが、今はそれが燃え盛る業火の色に見えた。
◆◆◆
「…という次第で、閻魔王様への面会希望の理由は、冥界の未来のため…などと不確かなことしか申さぬのです」
最近塞ぎこんでしまっている玄奘の様子を見に行った先で彼女と一悶着あり、
その後来客の報に部屋を出た閻魔王――悟空は廊下を淀みない足取りで歩いていた。
来客を知らせにきた妖怪が、その後を小走りに追いながら、追加報告を行っている。
「その者たちは、緑の髪の女と、フードをかぶった男の二人組みで、名前は…」
「…金閣と銀閣か」
ああ、と思いついた名を口に乗せる。
「さすが閻魔王様。ご存知ですか」
感嘆の声を受け流し、彼らが一体何の用かと思考を巡らす。
金閣と銀閣は天竺までの旅の途中に何度かやり合った相手だが、彼らが仕える蘭花は牛魔王側の者だったはず。
牛魔王は閻魔王としてはとても馴染みのある相手だった。
五百年前までは、どちらか冥界の覇権を握るかで凌ぎを削っていた。
と言っても閻魔王の方では牛魔王をそう敵対視していたわけではないが。
その後、閻魔王が不在だったこの五百年、冥界は牛魔王に仕切られてきた。
そこに、以前の王であった閻魔王が戻ってきたことによって、冥界には波紋が広がっている。
一つの世界に王は二人も要らない。
だから、本来であれば牛魔王に連なる者は敵のはずだった。
ただしそれは冥界が平定している前提で、だ。
天界と一触即発な空気が流れる今、内輪争いをしている場合ではない。
誰もがそれを知っている今だけに、二王の関係は酷く微妙だ。
だからこそ、面会を取り次いだ妖怪も、どうしたものかと困惑した表情を浮かべているのだろう。
「あの、どうされますか?お会いにならないなら、すぐに叩きだし…」
「いや、いい。会おう」
こちらの沈黙を不興と取ったのか、慌てたように付け加えられた言葉を遮り、悟空は溜息混じりに応えた。
◆◆◆
「閻魔王様。…お初にお目にかかります」
閻魔王という存在に敬意を表したのか、膝を折った彼らに、そんな挨拶と共に深々と礼をされ、
儀礼的なことは不要だと面倒くさげに手を振る。
「一応話だけは聞いてやる。お前らの主…蘭花、いや、蘇芳だったか。奴が俺に何の用だ」
「…流石に、全てご存知なのですわね」
三蔵一行の中の悟空としては、彼らの主が蘭花という人間だということしか知らない。
けれども、冥界に下りれば、彼の素性についての情報はすぐに手に入った。
彼は気さくで面倒見の良い性質で、人間ながら妖怪たちから慕われている、顔役のような存在だったので、
この世界での知名度はとても高かった。
けれどそんなことよりも、もっと深い情報を、今の悟空は幸か不幸か持っていた。
閻魔王が知っている情報だ。つまり、彼の前世について。
彼は、金蝉子の隣に立ち、理想をわけあった妖怪だった。
当時は感謝の念すらあった。
自分は立場に縛られて動けないから、その分金蝉子を助けてほしいと勝手な期待も寄せていた。
けれども、本当は憎らしくもあった。
しがらみに縛られた自分には立てなかった位置に、当然のように納まった男が。
「金閣、銀閣。俺もそんなに暇じゃねえ。用件があるなら手短に言いな」
冷たく切り捨てると、金閣と銀閣はちらりと視線をかわしあった後、真剣な表情で口を開いた。
要約すると、彼らの用件とは、閻魔王の今後の出方についての確認だった。
曰く、彼らの直接の主である蘇芳には、閻魔王と敵対する意志はなく、今後の動向如何によっては手を貸したいと。
「返事は急ぎません。ただとりあえず今は敵対意志がないことだけお伝えしたかったのですわ」と締めくくって
立ち上がった金閣と銀閣を、悟空は無言で見送った。
去り際に金閣が、ふと思い出したように「三蔵法師は息災ですか」と尋ねてきた。
悟空は内心でなるほどと小さく笑った。
先ほどの話ももちろん嘘ではないだろうが、何か違和感があると思っていたが、理由はこれか、と。
恐らくは、こちらの方が彼ら…特に蘇芳にとっての本命なのだろう。
だから、殊更冷徹に告げた。
「お前たちには関係ない」
瞬間、空気が冷たくビリと震えた。
息を呑んで立ち尽くした金閣と銀閣は、「失礼いたしました」と頭を下げると、すぐに場を辞した。
彼らがいなくなった直後、臣下と言える妖怪に、恐る恐るといった体で声をかけられた。
「閻魔王様。閻魔王様が以前申し付けられたものができあがったと城に仕立て屋が参っておりましたので、
品物をお部屋の方にお運びしました」
「わかった」
短く応えて、悟空は空間を移動した。
自室に戻り、少し疲れたように椅子に腰を落とす。
今の、こちらの機嫌を量るような声の掛けられ方や、金閣、銀閣の去り際の態度から考えて、
自分は今相当に機嫌の悪そうな、物騒な気配をしているに違いないと思い、暗く笑う。
遠距離への移動でもないのに空間転移を使ったこともそうだ。
普段であれば決してそんな無駄な力の使い方はしない。
どうにも最近、感情に理解が追いついていかないことがままある。
以前はきっちりと鎖に繋がれ大人しくしていた感情が、今では凶暴に吠え立てこの身体をつき動かしている。
先ほどの玄奘との件もそうだった。
あのとき、ノックがあって、正直助かった。
自分ひとりではきっと止められなかった。
直接の引き金となった行為自体は、単に彼女に栄養剤を飲ませるためのもので、そこに感情を含めたつもりはなかった。
あくまでも事務的にこなそうとしていた。少なくともそのつもりだった。
何が原因で理性が振り切れたのか、実は自分でもよくわかっていない。
血の匂いに本能を刺激されたのか、間近で潤む瞳を見てしまったからか。
いずれにしても、自分を抑えられないなど、以前の閻魔王にはなかったことだ。
「…俺まで壊れてる場合じゃねえってのに」
情緒不安定な玄奘のことを思い出して苛立たしげに前髪をかき乱した悟空は、
何気なく投げた視線の先で、例の届け物を目に留め、僅かに目元を緩めた。
閻魔王として冥界に渡ってからというもの、再び王としての名乗りをあげたわけでもないのに、
どういうわけか諸所から献上品が届いていた。
その中のひとつがこの薄紅色の布地だった。
献上してきた者は、是非受け取っていただきたいと切々と言い募っていたようだったが、
興味がないので適当に追い返そうと思っていたところ、たまたま目にしたそれに気が変わった。
上質で柔らかで軽やかで。それが彼女にとても映えるような気がして、彼女に合うよう仕立てさせた。
服を贈るのは少し抵抗があったので、肌寒いときに暖を取れるような巻き物にして。
立ち上がって、それを手に取る。
暫し考えた後、巻き物を手に、悟空は部屋を出た。
向かう先は一つしかなかった。
◆◆◆
扉の前で立ち止まり、ふと表情を改めて、その向こうを見透かすように目を細めた。
静か過ぎる。物音だけでなく、気配が。
最近の彼女は悩みを持て余し、少し塞ぎこんでいる風ではあるが、それでも魂の輝きまでが消えるわけではない。
いつもなら、扉越しですら、弱ってはいてもなお鮮やかな気配を感じ取れるのに、今はそれが極めて薄い。
眠っているのだろうか。それとも。
「玄奘、入るぞ」
その辺りを考慮して、常より小さな声で呼びかけた悟空は、それから室内に身体を滑り込ませた。
案の定、寝台で眠っている玄奘に、悟空は小さく息を吐いた。
大丈夫。眠っているだけだ。
先ほど飲ませた栄養剤には睡眠を誘発するような成分も含まれていたから、そのせいもあるだろう。
よく眠っている。
近寄って彼女の顔を見下ろした悟空の頬が辛そうに歪む。
彼女の頬にはしっかりと跡が残っていた。
意図して眠ったわけではないのだろう。
寝台に身を投げるようにして、一体彼女が何をしていたかは容易に想像がついた。
彼女が苦しんでいるのは知っている。
優しい彼女は、手の中にあるものを何一つ捨てられないでいる。だから苦しむ。
可能であれば、彼女が何も捨てなくていいようにしてやりたかった。
今となっては無理な話ではあるが。
この世界の均衡は既に破られている。
閻魔、牛魔の二王を擁する冥界と、五百年前、最高峰の武であった斉天大聖を失い、
いまだその空席を埋められていない天界とでは、パワーバランスの傾きは誰の目にも明らかだ。
例えば次期玉帝の呼び声も高い二郎真君ですら、純粋な戦いの場においては、閻魔王と肩を並べることすらできない。
この状況下で天界の取る方法など、嫌でもわかった。
だから警戒していたら、案の定と言うところか。
結果から見ると、まさにすべては悟空の読みどおりに動いた。
まずは経典の返還。
経典の持ち主であり、絶対の存在である釈迦如来がいる以上、取り返しても天界の力とはなりえないが、
冥界には渡すわけにはいかない。
まずはこの大きすぎる力を誰にも使えないようにすることが、天界にとっての最善だった。
それが為されたら、次は、甦った閻魔王とその協力者になるかもしれない三蔵法師・玄奘の抹殺だ。
前回は利用価値を考えて閻魔王を封じるに留めたが、今回は消滅を望んだ。
何しろ生かすには危険すぎるし、そもそもおとなしく封じられるはずがない。
少なくとも天界側はそう思っている。
かと言って、武力で劣る以上、どうやって閻魔王を消滅させるかと言えば、
天界が何を切り札に使うかなど、考えるまでもなかった。
今現在、閻魔王――悟空の唯一の弱点となる、玄奘、彼女しかない。
今の自分は嘗ての、冥界を守ることに存在意義を見出していた閻魔王ではない。
彼女に心を砕くただの一人の妖だと、天界には知られてしまっている。
唯一の弱点であれば、今逃れても、必ずまた狙われる。
彼女を天界の手の届くところには置いておけない。
それだけでなく、何よりもう自分が彼女を手離せない。
例えそれが彼女の意思に沿うものではなかったとしても。
悟空は、涙の跡も痛々しい玄奘の頬に手を伸ばそうとして、躊躇ったように動きを止めた。
薬が効いているとは言っても、神経が過敏になっている玄奘が起きてしまう可能性もなくはない。
逡巡し、代わりに、さらりと流れる髪に手を伸ばした。
一房をそっと持ち上げると、絹のような髪は、手の中からさらさらと零れ落ちていく。
まるで彼女自身がそうなるという暗示に見えて、思わず逃がすまいと手を握りこみそうになった。
すんでのところで留まった右手を彼女の髪から放し、「何やってんだ、俺は」と苦く呟く。
嘗ての閻魔王であったなら、あるいはもっと上手く立ち回れたかもしれない。
彼は、やりたいことではなくやるべきことを優先できる男だった。
けれど、良くも悪くも、今ここにいるのは閻魔王でなく、悟空だ。
純粋な冥界の統治者であった閻魔王には、もう戻れない。
妖怪を束ねる立場にありながら、ただ一人の人間の女を己の一番と定めた。
それはもう王ではないし、仮に王であるとしたら許されることではない。
「…これが罪だっていうなら、被るまでだけどな」
罪と知っていても手離せない。改めるつもりもない。
「悪いな、玄奘」
謝罪は、どうあっても罪に巻き込んでしまう彼女にだけ。
他に頭を垂れる必要を、少なくとも今の「悟空」は感じない。
それが罪と呼ばれるものなら、迷わず罪人となろう。
今更恐れるものなどない。
それでも、彼女を喪う恐怖にだけは堪えられそうにないから。
手にしていた薄桃色の巻き物を、彼女の眠りを妨げないようにそっと掛けながら、小さく小さく囁いた。
「だから……玄奘…俺の傍に、いてくれ」
祈りも願いも謝罪も、向かうのは彼女ただひとり。
2009.09.27
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