黒は夜の色。闇の色。
    ――全てを飲み込み。
赤は血の色。炎の色。
    ――全てを嘗め尽くす。

それは永劫消えることのない罪の色。











罪の色





黒い空、広大な森とその向こうに連なる建物の群れ。
窓から見える景色は変わり映えしない。
例えばこれが故郷の地であれば、薄暮に包まれてから残照に赤く照らされてさらに闇色に塗り替えられるまで、 刻一刻と変わる景色は決してその姿を留めはしないのだが。
朝、昼、夕、夜。そんな当たり前の移り変わりが今は懐かしい。
ここには夜しかない。


玄奘は窓辺に腰掛けてぼんやりと外を眺めていた。
地上が懐かしいと思ったのは今が初めてではない。夜しか存在しないこの場所、冥界に来たのはこれで二度目だった。
だが二度目は最初の時より遥かに長い逗留になりそうだった。
というより、ここから出られる目処は今のところたっていない。
もしかしたら、一生この世界で過ごすことになるかもしれない。
小さく溜め息を吐く。
地上には気になることがまだまだ沢山ある。仲間のこと、寺院の和尚様や子供たちのこと。
だから帰りたい。
けれど。
吐いた溜め息は、地上に戻りたいと考えてのものではなかった。


「入るぞ、玄奘」
声にはっと振り返ると、ちょうど扉を押しあけたばかりの彼と目があった。
ノックぐらいしてくださいと以前なら申し立てていただろうが、今はそれを咎める気はない。
それ以前に咎める権利がない。
ここは彼の…閻魔王の居城。彼が入室の許可を求めねばならない場所などない。
けれど、ああやって一応は声をかけてくれること、声から一拍分、 まるで躊躇うかのように扉を開けるのを待ってくれていることには気付いていた。
こういう分かりづらい気の遣い方をするあたりは昔と変わらない。気安い口調も、気だるげな表情も。
変わったのは纏う色彩と力、それに立場。


「何かご用ですか」
「…。お前、最近あんまり食べてねえだろ。絶食なんてやってみせても何の意味もねえぞ」
なぜか一呼吸おいてから、彼はぞんざいな口調でそう言った。
「そんなつもりはありません。ただ…少し食欲がないだけです」
「そりゃ、一日中部屋にこもってりゃそうだろうな」
やれやれと溜め息をついた彼の髪は漆黒。
前とはまるで違う色なのに、不思議とさほど違和感はなかった。
昔の、金禪子としての記憶にこの色彩があるからかもしれない。
黒い髪に赤い瞳。自分にとっては、見ているだけでなぜか心安らぎ、同時に心騒ぐ色合いだ。

「で、いつまでここに籠もってる気だ?一人で出歩くのは認められねえが、 俺とならいいって最初に言ったよな?それとも俺といるのはそんなに嫌か?」
直球で問われれば、押し黙るしかない。
わかっている。ここに閉じこもっていても何もならない。
けれど、足が動かない。
「まただんまりか。頑固なとこは前と同じだが、前のおまえはもっと自分の意見を言ってたぜ」
遠回しに責められているとわかっても言い返せない。
自分はこんなに弱かっただろうか。
沈黙を続けていると、閻魔王…いや、その表情はよく知る悟空のものでしかない、彼は苛立たしげに前髪をかきあげた。
突き刺すような視線に捕らえられる。
「確かに、あのとき何の説明もなく、無理矢理お前をここに連れてきたのは俺だ。 だがな、俺はお前を地上に返す気はねえし、死ぬのも認ねえからな」
玄奘は思わず首を振った。
「違います」
「何がだ?」
悟空はまるで、すべての責任は自分にあるとでも言いたげな喋り方をする。玄奘はただ巻き込まれただけだと。
けれど、違うのだ。そうではない。本当は――
「その責は私に。あなたではありません」









◆◆◆







全ては、長い旅の末、ようやくたどり着いた天竺で起きた。

ほぼ時を同じくして、経典を手にした顕聖二郎真君率いる一部の過激派の仙人が冥界に乗り込むという事件があった。
彼らの暴走を危惧した天界上層部は、唯一の対抗手段であるとして悟空にかけた封印を解き、 閻魔王としての力を解放させた。
悟空は取り戻した嘗ての強大な力をもって、決着をつけるためにやってきた二郎真君に打ち勝ち、 経典を取り返すことに成功した。
二郎真君は負傷はしていたものの命に別状はなく、すぐに駆けつけてきた、彼の補佐たる木叉により天界に連れ戻された。
勝手に冥界に攻め込もうとした二郎真君には追って何らかの処分がくだるだろうが、 情状酌量の余地もありそれほど厳しい罰がくだることはないだろうということだった。
これで懸念事項はまずひとつ片付いた。
二郎真君の、五百年前から抱え続けた心の傷を思うと一件落着とは言えないが、良くも悪くも事は起こったのだ。
これが何らかの契機にはなるだろう。あとは木叉や周りの者に任せるしかない。

一方、冥界の方はといえば、二郎真君との戦いの前に、既に経典の力で紅孩児を撃退していたため、 今更横槍が入る危険もない。

となれば、あとは降りてきた観音菩薩に経典を渡し、そこで三蔵一行の旅は終わるはずだった。
経典は本来は釈迦如来に直接返すべきだったが、今は精神体のみで観音の身体の中に眠っていると言われれば、 観音に渡すしかないだろう。

ともあれ、旅は無事に終わりだ。これで平和が来る。
そう思えば、これまでの疲れなど吹き飛んだし、顔に笑みものぼろうというもの。
玄奘はほっと息を吐き身体の力を抜いていた。
だからこのとき…観音による労いの言葉の間にも悟空が目を鋭く光らせているのは、単に戦いの余韻のせいだと玄奘は解釈していた。
けれど違った。
労いの後、観音に促され、悟空が経典を観音菩薩の手に渡すと同時に、 観音の右手がすっと上げられ、咄嗟に後ろに跳んで距離を取った悟空が、 手に力を集めつつ玄奘を振り返り「玄奘、来い!」と叫んだ。
わけがわからないまま駆け寄った玄奘を抱いて、悟空は空間を跳んだ。
この場から消える瞬間、玄奘は今まで自分たちがいた場所に、大きな力が叩きつけられたのを目にした。



声が出せたのは、嘗て一度来たことのある夜の世界、冥界についてからだった。
「いったい何が…なぜ…」
歯の根が合わない彼女の背を宥めるように撫でながら、
「…天界にとっちゃ、俺たちはもう用済みで、もっと言っちまえば邪魔なんだよ」
苦々しく呟いた悟空に、玄奘は必死に反論を試みた。
「けれどあのかたは…お釈迦様は、そんなことはなさらないはずです…!」
「釈迦如来はそうでも、身体を貸してる観音は違うんだろ。あいつは天界の者だ。しがらみだって保身だってあるさ」
どこか諦めたような声音に、玄奘は納得せざるを得なかった。
天界が、金蝉子が知っている頃から変わっていないのであれば、この展開を導き出すのは驚くほど簡単だった。
けれども、それらは全て後から考えたこと。
少なくとも、悟空が名を呼び、手を伸ばしてきたときには何も考えられなかった。
その時あったのは、ただ、自分を呼ぶ彼の声だけ。
天界の思惑を悟っていたわけでも、自らの身の危険に気付いていたわけでもない。
それでも迷わず、悟空の声に従った。
来いというただ一言。それだけで身体が動いた。
この事実を自覚すれば、自分の気持ちなど誤魔化しようもなかった。
天界を捨てられなかった金蝉子と違い、今の自分は天界はもちろん、故郷である地上界すら捨てて、 ただ彼に着いていくことができるのだと知ってしまった。
そうと知って、感じたのは、絶望だった。









◆◆◆








「…責が誰にあろうが関係ねえ。責任の所在追及なんざ、どうでもいい。もう起こっちまったことだからな」
突き放すような物言いに、玄奘は目を伏せた。
相変わらず、悟空は優しい。
突き放したように見えても、この状況下では、 玄奘が自分の責任についてあれこれ思い悩むのを止めようとしたとしか思えない。
玄奘は俯き、唇を噛み締めた。
「…今は何を言っても無駄か」
小さな溜息が聞こえた。つられて顔を上げると、すぐ近くに赤い瞳があった。
「…っ」
思わず顎を引くが、それより早く腕を取られる。
さらに引き寄せられ、逃げる間もなく、唇を重ねられた。
引き結んでいた唇を半ば強引にこじ開け押し入ってきた舌が、何かを喉の奥に流し込んだ。
恐らくは栄養剤の類だろう。
手段はともかく、彼の行動は全て自分を思い遣ってのこと。それに触れるたび、いっそう辛くなる。
自分は大事にしてもらえるような人間ではない。
いっそ放っておいてくれればよいのに。
八つ当たりめいた気分ではあるが、せめてもの意思表示に、合わされた唇を自分のそれごと噛んだ。
広がる血の味に眩暈がする。
この小さな抵抗に、彼はと言えば眉ひとつ動かさなかった。ただ瞳の深紅がさらに濃くなったような気がした。
そう思った瞬間に、さらに口付けが深くなった。
背骨が折れそうなほど抱きすくめられ、いっそこのまま殺してくれたらと愚かな考えが頭をよぎる。
「…っ、ぐ…」
ろくに息ができず、無意識に体が逃げを打つが、彼はもうそんな抵抗も許す気はないようだった。
真上から覆い被さるような体勢で四肢を押さえつけられる。
荒い息と濃密な空気が部屋を満たした。
それを止めたのは控え目なノックの音だった。
ふっと悟空の強い気配が揺らぎ、視線が玄奘から外された。
「閻魔王様、こちらにおいでですか?…面会を申し出ている者がおりますが…」
恐る恐るといったようにかけられる言葉に、
「わかった」
短く答えた彼はゆっくりと身を起こした。
そのまま振り返らずどこか優雅な動きで退室する広い背中を、玄奘はぼんやりと見送った。



一人、部屋に残された玄奘は、再び思索に耽った。
建設的でないとわかってはいるが、今はそれしかできない。
その思考すら、埒もないことで占められているのだが。
考えることと言えば、謝罪と自嘲ぐらいだった。

閉じこもってしまった自分に悟空が心を砕いてくれていることは身に沁みている。
けれども、彼の手を取り、その言葉に応え、彼の傍に立つことはやはりできなかった。

他の全てを捨てて、ただ一人を選ぶことなど、許されるはずがなかった。
他の全てを捨てて、ひとり幸せになど、なって良いはずがない。
それでは、仲間にも昔の自分にも…何より、昔の仲間に申し訳が立たない。
金蝉子と自分とは違う。金蝉子の責任をすべて負うつもりもないし、そんなことができるとも思えない。
けれども、無関係だと言い切れるほど、過去を切り捨てられるわけでもない。

閻魔王である悟空と天界との対決の構図はもはや覆らない。
悟空の傍にいるということは、必然的に天界と地上界の敵となり、冥界側の者となるということ。
地上で生きてきた玄奘として、さらに地上の平和を願った三蔵法師として、どうしてそれを受け入れられるだろう。
三蔵法師・玄奘として正しい道は、悟空から離れ、中立的な立場で和平への道を模索すること。
けれど、理性ではそうとわかっていても、感情がそれを望まない。

「私はどうやら自分で思っていた以上に我が儘で、強欲だったようですね」
誰へともなくぽつりと呟く。

意識せず、喉の奥でひきつれた音が漏れた。
次いで視界がぼやける。
もう自分でも誤魔化しようのないほどの嗚咽を漏らしながら、玄奘は寝台に伏せた。
「それでも…、それでも、ごめんなさい、私は、悟空とともに、在りたい…!」
取るべき道と取りたい道が違うから、だからここから一歩も動けない。

肩を震わせながら、玄奘はどこへも届かない謝罪をただ繰り返した。









◆◆◆








どれだけの時間が経ったのだろう。
微睡みから覚めた玄奘は腕を突いて身体を起こした。
いつの間にか、泣きつかれて眠ってしまったらしい。
起きあがると肩口から滑らかな布が滑り落ちる。
自然と、目がそちらを追う。
女性用の肩掛けのようだったが、見覚えのあるものではない。
少なくとも、先ほどまでこの部屋にはなかったもの。
布を手に取った玄奘は、泣き笑いの表情を浮かべた。
手触りからして明らかに上質な生地、薄紅色の上品な色のそれを誰が用意し、 そして今、自分が眠っている間に誰がかけてくれたのかなど、考えるまでもなかった。

「相変わらず…不器用ですね。悟空…」

彼のためにも、自分こそ動かなければいけない。せめて、どう動くのか、結論を出さなければ。
悟空は口ではああ言っていたが、本当に自分が望めば、その道を目指すことを許してくれるだろう。
嘗ての閻魔王がそうであったように。
状況も理性も全てが同じ方向を指すのに、ただひとつ強硬に反対する感情を、無視できないでいる。


目を閉じれば浮かぶのは、心に焼き付いて片時も忘れることができない、あの黒と赤の色彩。

そして、心に抱くのは、たったひとつ。
他を思い切れもしないのに、それでも一緒にいたいと心の底でずっと願っている。

そんな己の罪深さと強欲に目眩がした。








2009.09.23















*** お手数ですがブラウザバックにてお戻りください ***