日常に寄り添うもの





繕い物をしていた玄奘は、ふと手を止めて窓の外の様子をうかがった後、 戸の近くの柱に凭れて目を閉じている悟空に目を向けた。
「悟空」
「…何だ?」
限りなく眠そうではあるが、かろうじて眠ってはいなかったらしい悟空から短く応答が返る。
「そろそろ日が沈み始めます。夕飯の用意をしなくては」
「あー…。そうだな」
大きく伸びをして立ち上がる。
玄奘は、部屋を出る彼の後を追った。
長身の彼とは一歩の大きさが当然違うので、本来彼の歩みについていくためには小走りにならなければいけない。
けれど特に急ぎ足でなくても悟空と肩を並べることができるということは、彼が速度を緩めているということだ。
ぐうたらしているように見えても案外周りの様子をよく見ていて、 さり気なく気遣いをする彼が、どうやら自分に歩調を合わせてくれているのだと気付いたのは、 旅が終わり新しい生活を始めて少し経った頃だった。






◆ ◆ ◆





穏やかで麗かな昼下がり、山菜を取りに裏山に行こうとしていた玄奘は、 丁度薬草を取りにいくという悟空と連れ立って山道を登っていた。
険しい道を歩くのは慣れているので特に苦にはならないが、天気が良くて緑も青々としていて隣に悟空がいて、 あまりに気持ちの良い昼下がり、足運びはのんびりとなりがちだった。

二人で肩を並べて歩くというのはさほど珍しいことでもない。
旅の最中、玄奘は先頭に立ってはいたが、時折最後尾の悟空の様子を見に行っては、そのまま暫く並んで歩いたものだった。
そんなことを懐かしく思い出しながら、玄奘はふと違和感に気付いた。
違和感というか、今まで違和感がなかったことに対する違和感というか。
旅の最中、彼は封印のせいで体力がぎりぎりまでおさえられていた。歩いていることすら奇跡と言われる強い封印の影響下で、 彼はいつも最後尾をのろのろとやる気なさそうに歩いていたものだ。
けれど旅が終わり、その支配から解かれた彼は、もう当たり前に身体を動かすことができるはずだ。
それなのに、特に意識することなく、以前と変わらず肩を並べて歩いている。
今は決して急いでいるわけではなく、どちらかというとのんびり歩いているのに。

玄奘は自分の歩く速度と歩幅を念の為確認し、悟空の足元にちらりと視線を移し、それから思わず顔を伏せた。
きっと真っ赤になっていると思ったからだ。

悟空は本当に周りをよく見ている。
わかってはいたが、彼のその気遣いの範疇に自分が入っているのだと目の当たりにすると少し面映い。
しかも彼は、それを相手に気付かせないようにさりげなくやるものだから、 うっかり気付いてしまったときの、この例えようもない恥ずかしさといったら…

「…おい、玄奘。どうかしたか?」
「は、はい!?い、いいえ、何でもありませんよ。ええ、何でも」
顔は伏せたまましきりと頷いてみせるが、隣からの訝しげな視線は消えない。
本当に、彼は周りを良く見ている。
「何でもねえって顔じゃないだろうが」
口調はぶつぶつと、けれど瞳に浮かぶ気遣いの色は見間違いではない。
「大丈夫ですよ。その…ちょっと、嬉しくて」
頬の熱さを気にしながらもそう洩らすと、悟空はいまひとつ釈然としない面持ちで「ふーん」などと呟いていた。






◆ ◆ ◆





「…おい、玄奘。どうかしたか?」
「えっ!?」
急にかけられた声に肩が飛び跳ねる。
我に返ると、傍らから薄紅の目がこちらをうかがっていた。
まるであの時のようだ。
「…なんだよ、玄奘。んな、にやにやして」
不気味だなどと失礼なことを呟く悟空に、玄奘は心持ち唇を尖らせた。
「失礼ですね。にやにやなんて……」
そう言いながら頬に手を当てた玄奘は、いったん言葉を切った。
確かに頬が緩んでいる。無意識だったので気付かなかった。
「…していました、ね。すみません」
「いや、謝ることじゃねーんだけどな」
「それは、そうですが」
応えながら、玄奘は悟空から既に下拵えの済んだ野菜を籠ごと受け取った。
自他共に認める「ぐうたら」と言っても、実際に動くとなれば、彼の動きは無駄がない分素早い。
しかも薬の調合などをよくやっているせいか、意外と手先が器用な彼の調理の腕前はなかなかのものだ。

受け取った籠から鍋に野菜を移そうとして、玄奘はふと口元を綻ばせた。
「…だーから」
「はい?」
「さっきから何だよ。何かあんのか?」
どうやら気にしてくれていたらしい。間髪入れずに突っ込んできた悟空に、思わず笑みが深まる。
案の定、少しむっとしたような悟空から抗議があがってきたが、笑いは止められない。
「いいえ、…ちょっと嬉しくて」
あの時のことを思い出しながらそう言うと、悟空はあからさまに溜息を吐き出した。
「そーいや、以前もそんなこと言ってたな、おまえ」
「覚えているんですか?」
目を丸くすると、
「おまえな、俺の記憶力を何だと思ってるんだ」
と胡乱げに返されたが、あんな些細なこと、まさか覚えてくれているとは思わなかった。
「すみません。そういうつもりではなかったのですが。本当に、ただ嬉し………幸せなだけです」
手元に視線を落とした玄奘は、微笑みながら少し言い換えた。
「幸せ、ねえ。まさか食事の準備がか?」
「それもあります」
「はぁ?」
「ですから、悟空にいつも食事当番をお願いしているのです」

手の中には、鍋に一度に放り込むのがもったいなくて、まだ手の中に持っていた、 食べやすいように固い筋を取り除き、程よい大きさに切られた野菜がある。
何と言うか、彼らしくないようであって、ひどく彼らしい。
こんなふうに、さり気ないところで発見する、彼の気遣い。
それに触れるのが、少し気恥ずかしくて、とても嬉しい。

とは言え、悟空に食事当番を任せている理由はもちろんそれだけではない。
最初は、この寺院にやってきた悟空の居場所を作り、子供たちと打ち解けさせるためだった。
もっとも今の子供の懐きようを見るに、その心配は杞憂だったようだが。

「一体どういう理屈だ、そりゃ」
諦めたように小さく息を吐き、次々と作業をこなしている悟空に、玄奘は少し躊躇いがちに声をかける。
「あの、悟空。こんなところで何だと怒られるかもしれませんが、どうしても言いたくなったことがあるのですが」
「ああ?……言えばいいじゃねえか。許可なんて取らずに。って、また説教じゃねえだろうな」
何を言ってるんだと言いたげな声音だが、言質は取った。
「では…」
内心でひとつ深呼吸してから、目を閉じ、一息に告げた。
「いつも、ありがとうございます、悟空。あなたが子供たちや和尚様、 それから…私に気を配ってくれていること、とても感謝しています。…大好きです」
言い終わった途端、がこんと大きな音がした。
反射的に目を開けると、調味料を入れた壷が倒れていた。どうやら悟空が取り落としたらしい。 幸いにも割れていないようだ。
と、そこまで確認したところで、頭上から呪詛のような低い声が響いてきた。
「……おまえな、ほんっと…」
見上げると、片手で隠すように顔の下半分を覆った悟空が、こちらを睨んでいた。
指の隙間から見える頬が赤い。
旅をしているときよりは感情をストレートに表すようになった彼だったが、 表す方はともかく、気持ちをぶつけられる方、特に不意打ちには相変わらず弱いようだ。
それはともかく、そんな反応を返されるとこちらも恥ずかしくなるのだが。
思わず視線を彷徨わせると、「あー、くそ!」と毒づく声とともに、長い腕が伸ばされた。
視界が彼の上着の色一色になる。

「…あ、あの…悟空?」
「うっせえ。こっち見んな」
見ようにも、がっちりと抱き込まれては顔を上げることもできないわけだが、 さすがに改めて口に出すのは恥ずかしいので、玄奘は暫し口を閉ざした。
代わりに何と言ったものかと頭の中でぐるぐると考え、現実的な話を振る。
「そ、それはともかくですね…、しょ、食事の準備の途中ですし…そ、そろそろ放して…」
「もう少しだけ、そのままじっとしてろ」
密着しているせいで、声が振動として伝わってくる。それがなんともこそばゆい。
「あの、でもですね…」
「……俺も同じだ。だから暫くこのままで」
何が同じなのかは言われなくてもわかった。先ほど、玄奘自身が言った台詞、それと同じ気持ちだと。
食事の時間が遅れてしまうとか、子供たちが手伝いに来てしまうかもという思いは脳の片隅にあったが、 玄奘は「はい」と応えると、どうしても緩んでしまう口元を隠すように、目の前の温もりに顔を埋めた。





2009.09.23















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