幕間 【同族嫌悪】




いつもより遅めにトレーニングを終えた慧が、非常階段から八階の廊下に滑り込み、部屋に戻ろうとしたときだった。
腕を組んで廊下の壁にもたれかかっていたディオが、慧が通りすぎる瞬間に口を開いた。
「…待てよ、藤ヶ谷」
低い、他を威圧する声。
いつものものとは違うその声音に、慧が足を止めて振り返ると、酷薄な光を宿した緑の目がこちらを睥睨していた。
慧は無表情の仮面の下でざわざわと膨れ上がる不快感をあえて無視し、「何だ」と聞き返した。

この男のこういった表情を見ると、自分と同種だと感じ、同時に酷く不愉快になる。
もっとも、相手も同じようなことを感じているようだが。

グレゴリー・ホークの襲撃を受けてから、自分は真っ当な道を外れた。
自分の歩いてきた、そしてこれからも歩くこの道は血塗られている。
光差す道へはもう戻れないとわかっていた。この美学行動科のチームにおいてすら他のメンバーと自分は違うのだと。
けれど、ただ一人――目の前のこの男は、自分と同様に闇の世界の住人だということに、本能で気付いた。
同じ世界にある者だけが感じ取れるにおいとでも言うのか。
ひどく血なまぐさいにおいを纏い、心の中には闇と空虚を抱える。
しかも、抱く闇の種類は似ていても、志向がまるで違うため、どうやっても相容れない。
こういうのを同族嫌悪というのだろう。




ディオは体勢を崩さぬまま、続けた。
「お前、明日叶に何した?」
「…お前に答える必要はない」
単刀直入な問いに、黙秘するでなく答えたのは、一つにはこの男に黙秘が通用しないであろうことがわかっていたため、 そしてもう一つは、単に機嫌が悪かったからだ。
いつもより好戦的になっている自覚はある。
しかも、よりによってその原因となる部分を無遠慮につつかれたのだから、機嫌は降下するばかりだ。

昨晩、明日叶を無理矢理抱いた。
忘れたい過去を、無自覚に突きつけてくる明日叶に苛立ったのは事実。
けれどそれは切欠に過ぎない。
未だに胸の中に吹き荒れているやり場のない憎悪と元々明日叶に対して抱いていた欲とが混ざり合って、 押さえが利かなくなった。
誰よりも大切にしたい――今となっては唯一の大事な存在を、この手で蹂躙する自分に絶望しながら、 ほんの少し、これで明日叶が自分から離れてくれるだろうと安堵した。
けれど、明日叶はそうはしなかった。
感情をきれいに写すあの瞳は、あの無茶苦茶な行為を、そして行為者たる自分を許していた。


「答える必要はない、だと?…ざっけんなよ…!」
獰猛な肉食獣が唸り声をあげるように、突如、罵る声がディオの喉から搾り出された。
「"合意"、なわけねえよなあ?それだったらあいつがあんな浮かない顔してるはずがねえし、それに」
ディオがゆっくりと壁から身を起こした。
大きいストライドで、一歩、二歩ほどこちらに歩み寄る。剣呑に眇められた目がぎらりと光った。
「明日叶の手首の痣。あれ付けたのお前だろ」
「…だったら、どうした」
答えた瞬間、躊躇いの欠片もなく、重い拳が鳩尾に叩き込まれた。
さすがに体勢を崩すが、辛うじて倒れこむことは避けられた。
すぐに次の攻撃が来るだろうと予想したが、ディオはそこで小さく舌打ちすると拳を引いた。
「てめえの自己満足な贖罪に付き合ってやる気はねえんだよ」
どうやら、避ける気がないことを早々に見抜かれたらしい。
「今の一発は、明日叶のチームメイトとしての一発だ」
慧はいつも無表情に引き結んでいる唇を皮肉げにつりあげた。
「お前個人の分はいいのか?クラウディオ・ロッティ」
それに対して、ディオはハッと鼻で笑っただけだった。
「そんな見え見えの挑発に乗る馬鹿がいるかよ。それに、明日叶の気持ちの決着がまだ付いてねえからな。 お前と明日叶の問題に俺が口をつっこむわけにもいかねえだろ」
そう言うと、ディオは表情から一切の感情を消した。
喜怒哀楽の感情を乗せないと、そこには他者をすべからく畏怖させる、圧倒的な威圧感だけが残る。
実戦経験を積み修羅場慣れしている慧ですら反射的に身構えてしまうような、 普通に生活していれば決して持ち得ない凶悪な気配。
「今回の件――俺の分の報復が入らなかったことを明日叶に感謝するんだな。 もし明日叶がお前を選んでなきゃ、俺はどんな手段を使っても、徹底的にお前を潰してただろうぜ」
詐欺師であるこの男は誰にも見破られない嘘を吐く。
けれど、慧はディオから確かに本気を感じ取った。

「もうひとつ言っとくと、今回は明日叶の気持ちを尊重して俺は何もしねえが、次はないぜ…?」
「ああ」
慧は短く答えた。
目の前の男を恐れたからではなく、実際に「次」はどう転んでも存在しないと思っていたからだ。
明日叶はもうあれほど不用意には自分に近付いてこないだろう。
それに、これ以上は自分が許さない。
これ以上、何かが明日叶を傷つけることを許せるはずがなかった。たとえそれが自分自身であっても。

「次は、ない」
答えというよりも自身に言い聞かせるように呟くと、
「そう願いたいもんだな」
とディオは肩を竦めた。
物騒な気配を引っ込めてポケットに無造作に手をつっこんだディオは、 それきり振り返りもせず、自分の部屋へと戻っていった。




ひとり廊下に残った慧は、ふうっと視線を明日叶の部屋の方向へと向けた。
昨日の行為があとをひいているのだろう、明日叶は今日はずっと顔色が悪かった。
そうさせた張本人である自分が望むのもおこがましいが、早く彼の傷が癒えるようにと願う。
彼には自分のような血まみれの道を歩いて欲しくない。
光が似合う彼は、だから、普通の生活に戻れない自分にはもう近付くべきではない。
身勝手な願いだが、彼にはずっと日の当たるところで屈託なく笑っていて欲しい。
それなら、どれだけ手を血に染めてでも、自分が影から彼の幸せを守るから。

しんしんとした夜の気配を肺いっぱいに吸い込み、慧は祈るように真摯に、たった一人の大事な大事な存在の事を想った。








2010.01.04





慧ルートのアレの後、こういうやり取りがあったりなかったり…したのではないかと。(笑)










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