【アイドル】
明日叶は足早に廊下を歩いていた。
足早、ではあるが、心持ちその足取りは重い。
本日の一時間目は数学。
昨晩の予習はいつもより熱心にやったため、少々寝不足だ。
ここ数日数学漬けだったので、「最近、やけに数学に熱心だな、どうした?」と、
最初は単純にからかうように、そのうちに訝しげな光を宿した目でディオが追及してきたが、
とにかく数学を教えてくれという明日叶に折れて、理由は聞かずに特訓してくれた。
おかげで随分と理解が進んだし、予習もかなり先までできた。
ちなみに理由はあるのだが、ディオには最後まで言わなかった。
言うほどのことではないし、明日叶自身も言いたくないし、何よりディオには言ってはいけない気がしたからだ。
話は前回の数学の時間に遡る。
たまたまディオも慧もいない日で、数学の授業はもう終わろうというところだった。
今までの数学教師が暫く休むことになり、代わりにその日から数ヶ月間授業を受け持つことになっていた新任の教師が、
わざとらしく溜息を吐いて言った。
「小林明日叶君、だったね」
「あ…はい」
やけに難しい問題をいきなり当てられ、答えられなかった明日叶に、教師は意味ありげな視線を向けてきた。
大人しく返事をしつつも、明日叶は思わず眉を顰める。
教師は教壇から下り、机の間を縫って明日叶のところまで歩いてきた。
「君は途中編入ということだけど…もうこの学園にも慣れてる頃だろうし、そろそろ成果を見せてもらわないと。
何しろ、君は美学行動科なんだろう?」
近くで囁かれる、ねっとりとした猫撫で声が神経に障る。
口調が叱責のそれならまだよかった。
だが、この類の言葉を猫撫で声で言われると馬鹿にされているようにしか感じない。
大体、明日叶がこの学園に途中から編入してきたとはいっても、
今日やってきたばかりの新任の代理教師に言われることではないし、
それに、美学行動科だから…だから何だというのだろう。
けれど、結局明日叶は「はい」と小さく頷くに留めた。
ディオが見ていたら「優等生」とからかわれるだろうなと思うが、この性格は元々のものでどうしようもない。
教師が絶対だとは思っていないが、少なくとも教室内においては、
教師のいうことを聞くべきだという意識が明日叶の中にはある。
それに、真の意味がどうあれ、美学行動科がエリート視されているのは事実で、
しかも同じ学年のディオや慧が一般教養の授業でもなまじ優秀な成績を収めているだけに、
ここで自分ひとりのために美学行動科の…チームグリフの評価を落とすわけにもいかない。
「ふむ。わかっているならよろしい。まあ、頑張ってくれよ、小林明日叶君」
教師は馴れ馴れしく肩に手を回し撫でるようにぽんぽんと叩いた。
「…っ」
思い切り振り払いそうになる衝動を押さえ、さり気なく教師の腕から身体を離すと、
教師は気付かなかったのか、笑みを浮かべたまま教壇に戻った。
明日叶は鳥肌の立った腕を擦りながら、唇を噛んだ。
そのときのことを思い出してまた鳥肌が立ちそうになった明日叶は慌てて腕を擦った。
いくらチームグリフの面々と関わるようになってスキンシップに慣れたとは言え、知らない相手とのそれはまた別だ。
しかも、何となく嫌な感じがしたのだ。
とは言え、これをディオに言うのはどうかと思う。
新任教師には他意はなかっただろうし、大体がわざわざ人に言うほどの大した出来事ではない。
というか、言いたくない、と明日叶は唇を引き結んだ。
ディオは確かに頼りになるパートナーだが、だからと言って一方的に寄りかかるつもりはないのだ。
逆に、できることは自分で解決したい。そうでないと、いつまで経ってもディオの隣に並べない気がするからだ。
ともかく、ディオの手は借りたが、前回のようなことにならないための対策として予習を完璧に仕上げてきたわけだし、
これで大丈夫だと自分に言い聞かせながら、明日叶は教室のドアの前で一拍立ち止まった。
それから意を決したように教室に入った。
席に着いて、机の上に教科書やらノートやらを出していると、上から声が降って来た。
「おい、明日叶。どうした?」
いつの間にか隣にやってきていたディオがこちらを見下ろしている。
「どう、って…」と言いかけて、気付く。
どうやら無意識のうちに溜息を吐いていたようだ。
自分でも気付かなかったそれをあっさり指摘したディオに驚きつつ、
明日叶は「いや、別に」と言葉を濁した。
「ふぅん?次の数学の授業のことを考えて憂鬱になってんのかと思ったぜ」
「…」
明日叶はディオをじろりと睨んだ。
「わかってるなら聞くなよ」
「つい、な。拗ねるなよ、ガッティーノ。拗ねても可愛いだけだぜ?」
伸びてきた手を明日叶は慌てて避けた。
教室に入れば人目がある。そんな場所で良からぬことはしでかさないだろう、という考えは甘い。
経験で知っている。こういうときのディオに捕まったら最後だ。
しかし今回はディオの方も特に本気ではなかったようで、明日叶を捕まえ損ねたことに特に気を悪くするでなく、
楽しそうにくっくっと笑いながら、椅子にどかりと腰掛けた。
その次の瞬間、舌打ちをして振り返る。
「…おい、藤ヶ谷。朝っぱらから、んな物騒な殺気向けんなよ。ウゼェ」
「お前が馬鹿な言動をしなければいいだけのことだ」
丁度やって来た慧がディオを睨みつけるようにして席に着いた。
そのまま火花を散らす二人に、明日叶は小さく溜息を吐いた。
最近、ディオは当然のように明日叶の隣に座り、気付けばその後ろに慧が座っている。
それが一般教養の授業時のいつもの明日叶の周囲の光景だ。
慧は自分の幼馴染なのに、その自分の後ろではなくディオの後ろを選んだというところに、
一抹の寂しさを覚えないでもないが、慧が自分以外とも仲良くするのは良いことだ。
…と以前、明日叶が言うと、慧は心外だという表情で「守る対象にはりつくより、敵をマークした方が早いからだ」
とか何とか言っていた。
ちなみに意味はよくわからなかったので曖昧に頷いておいたが。
これから始まる数学のことを考えると少し気は重いが、今回は予習はほぼ完璧だし、それに今日はディオも慧もいる。
視界の中に「誰か」がいることで安心するなんて、自分も変わったものだとつくづく思う。
変われた、という方が正しいかもしれない。それは仲間たちのおかげだ。もちろんこの二人にも感謝している。
しかし、それはそれとして――
(ディオと慧はいいよな、気楽で)
などと、本人たちが聞けば間違いなく憤慨を通り越して脱力するに違いないことを考えつつ、
明日叶は予習済みのノートを開いた。
そうして始まった数学の授業は明日叶の不安をよそに滞りなく進み、もう大丈夫かと安心しきっていた頃、
教師が明日叶に目を向けた。
「では次の問題を…小林君。前に出て解いてもらおうか」
明日叶は小さく溜息を吐いた。
ちらりと時計を見ると、授業はあと五分。もう終わりだというのに、先週に引き続きのこれは、
目の仇にされていると理解すればいいのだろうか。
けれど、未だに苦手意識が抜けない数学とは言え、今日はいつもよりきっちり予習はしてきたから問題はないだろう。
そう思っていた明日叶は、黒板の前で、今しがた教師が書いたばかりの問題を見て絶句した。
確かに数式の形こそは見覚えがあるものだが、いざ解こうとすると解けない。解き方がわからない。
何だこれ、と頭の中が真っ白になった。
手が動き出さない明日叶に、教師が「どうしたんだい?」と近付いてきた。
すぐ背後に立たれることに不快感がじわりとこみ上げる。
教師との距離を取ろうとするが、その前に、さり気なく腰に添えられた手に動きを阻まれた。
「…っ!?」
教師は何事もないかのように、薄笑いを浮かべたまま続ける。
「また解けないのかい?困るなぁ。もっと頑張ってもらわないと」
「え、でも…」
さすがに反論しようとしたが、背筋にぞわりと感じた嫌悪感に、言葉が途切れた。
教卓に隠れた部分で腰に添えられていた手が、明らかに意図的な動きをみせた。
身体のラインを辿るようにして腿の辺りまで滑ってきた手がさわりと辺りを撫でまわす。
「しようがないなぁ。そんなことじゃあ美学行動科の一員として困ることもあるだろうから、
特別に僕が教えてあげよう。放課後、数学準備室に来るように」
「ふ…っ」
ふざけるなと怒鳴ろうとしたとき、「へえ?」と嘲るような声が響いた。
決して大声を出しているわけではないのに教室内に響く存在感のある声が誰のものなのか、考えるまでもない。
明日叶が振り返ると、不敵に口の端を上げたディオが、がたんと音を立てて立ち上がるところだった。
「な、なんだね。君は!今は授業中だぞ!大人しく席に着きなさい!もし授業を妨害するつもりなら…」
「妨害?人聞きの悪い。少し、授業の手伝いをしてさしあげようと思いまして」
「な、何?」
慇懃な口調でディオは明日叶と教師の間に入り、さりげなく明日叶を教師の手から引き離した。
それから冷めた目で数式を一瞥し、問題の数式自体に、カッカッとチョークで数字を書き足していく。
「条件が足りねーな。これじゃあどう頑張っても解けねえだろ。
解ける問題にするとしたら…まあ、こんなとこだな。つーわけだから、明日叶、解けなくて正解だ」
「ディオ…」
明日叶はほっとしたこともあり、授業中ということも、教室の中だということも忘れ、
ただいつものようにディオに微笑みかけた。
すると、ディオが諦めたように溜息を吐いた。
「ディオ?」
「…お前も学習しねえっていうか…まあ、今回は逃がしてやるつもりはねえけどな」
「何のことだ?」
小首を傾げたのと、ディオの腕が素早く動き、明日叶の腰をさらって引き寄せたのが同時だった。
「…っ!…っぅ…」
目を見開いた明日叶は、至近距離にあるディオの、
閉じられない瞳がぎらりと刃物のような光を放っていることに気付いてぞくりとした。
表に大っぴらにこそ出してはいないが、奥底に存在していたらしいディオの怒りを感じて。
そして、それとはまた別の意味で、身体が粟立った。
まるで口から一気に食われるかのような錯覚は、
明日叶から正常な思考を容赦なく奪い取った。
激しい口付けは、明日叶に他のことを考える余地など残さなかった、というのが正しいのかもしれない。
やがて貪りつくされてぐったりした明日叶を胸の中に閉じ込めたディオが、
僅かに目を細めつつ教室内に視線を一巡させた。
視線は最後に、口をぱくぱくさせてこちらを見ている教師に止まった。
ディオがニヤリと笑う。
「なあ、新任のボウヤ。職員室で教えてもらわなかったか?小林明日叶には手を出すな。
それから、ロッティの扱いには気をつけろ、ってさ」
ふざけたような、嘲るような言葉だが、口調に潜む凄みを隠しもしない。
それを一身に受けた教師は蒼白になって震え出した。
「お…お前が…っ、ロッ……」
ディオの実家のことまで知っているかどうかはわからないし、親の権力を傘に着るような真似をディオはしないが、
彼自身の人脈と能力だけでも、学園内外を問わず相当な影響力がある。
ひっと喉を鳴らして腰を抜かした教師に、ディオは殊更ゆっくりと目を細めた。
「こいつはお前程度に落とせるような奴じゃねえけどな…だが…もしこいつに手ぇ出すつもりなら、
相応の覚悟はしとけよ」
そう言って、獰猛な獣が、牙を見せて笑った。
水を打ったように静まりかえる教室で、不意にひとつの物音が上がった。
漸く我を取り戻したところの明日叶が、音の方に向けて目を瞬かせた。
「け、慧…?」
そういえば慧は先ほどまで眠っていたはずだが、この騒ぎで目を覚ましたのだろうか。
派手な音を立てて椅子を蹴倒した慧は、明日叶の呼びかけにも応えず、前に出てくると、ディオの前で止まった。
「クラウディオ・ロッティ…貴様…」
低い呟きとともに、慧は足を振り上げた。
「っと」
ディオは間一髪で、飛んできた蹴りを、力の方向を変えてやることで受け流した。
間髪を居れず、慧の顎をめがけて肘を振るが、慧はそれを軽いステップで後方に下がり避ける。
「ちょ…!待てよ二人とも!」
先ほどまでの張り詰めた緊迫感は一気に崩れ、主題は、
ディオと明日叶とそれから新任教師との間の揉め事から、いつものディオと慧の騒がしい乱闘騒ぎに変わった。
結局、日常茶飯事的に繰り返されており、誰もがもはや止める気もない二人の喧嘩に終着することで、
この一件はうやむやとなった。
ただ、新任の教師はといえば、その翌日から学園で見かけなくなったが。
水面下で速やかに情報連携が行われ、それを受けて各方面が動いた結果なわけだが、当の明日叶はそれを知らない。
というより、乱闘騒ぎの直後、着衣を乱して闘気を全身に漲らせたままの野生の獣に、
「ところで、明日叶?」
「な、何だよ」
「お前は身も心も俺のモンっつったよな?」
「ディ、ディオ…!?こんなところで、何言って…!」
「てわけで、だ。なーに俺のモンを勝手に触らせてんだよ。それにあの様子じゃ前回の授業でも何かあったな?
で、お前はソレを俺に黙ってた、と。……お仕置き決定、だな?」
と囁きかけられた上、人目を憚らず耳を甘噛みまでされた獲物としては、それどころではなかったのだが、
それはまた別のお話なのである。
2010.02.07
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