l'amante




「……お前は、誰なんだ……?」
糸がぷつりと切れたように、呆然と見開いた目から涙をとめどなく流しながらそう問いかけてきた明日叶の顔は、 まるで途方に暮れた迷子のそれで、ただただ壊れ物を扱うように優しく抱き締めることしかできなかった。
いつもならば滑らかに言葉を紡ぎ出す舌も強張ってしまって、たった一言を滑り落とすのが精一杯だった。
「……お前の恋人だよ、明日叶」
舌先の魔術師が、聞いて呆れる。
詐欺師が嘘を封じられた。こんな滑稽なことはそうそうない。








◆◆◆







「ディオさん、あの、朝ご飯できた、けど」
軽いノックの音とともに、扉の向こうから顔をのぞかせた明日叶に、ディオは手を上げて「Grazie!」と応えた。
明日叶の表情がふわりと綻ぶ。
「それじゃ、早く着替えて。ダイニングで待ってる」
そっと閉められた扉を、ディオは暫し、眩しそうに目を細めて見詰めていた。
これが、ささやかな幸せというやつなのかもしれない。
ただ、もどかしくはあったが。

マニュスピカへの道を諦めた時点で、明日叶の記憶は抜かれている。
美学行動科のことも、チームグリフのことも、ディオのことも。
クラスメートであった記憶もない明日叶は、ディオが同い年だということをなかなか信じず、 敬語は何とかやめさせたものの、さん付けでしか名前を呼ばない。
再会したその場では、以前のように無遠慮に言葉をかわしたが、あれは軽い恐慌状態による産物だったようだ。
だから、以前と同じように一緒にいても、決して同じではない。
彼と自分との間には薄い壁が存在している。
「…それでも、アイツは俺と一緒に来たんだ」
自分自身を納得させるように、あるいは滲み出る不安に挑むように呟く。
見下ろした自身の手首には、マニュスピカ候補生の証たるバングルは既にない。
今はほんの少しの日焼けの跡を残すのみだ。
あれが外された時点で、候補生の資格は抹消されているはずだった。
今から、もう一度候補生に戻るのはとても難しい。
理由はどうあれ、結局のところマニュスピカの掟よりもマフィアの掟に則って報復を果たした自分を、 マニュスピカは受け入れないだろう。
今更学園には戻れない。
だから明日叶を浚ってきてしまった。







並木道での明日叶との再会はもう数週間ほど前のことになる。
あの後、文字通り彼を「浚った」。
寮に帰る途中だったらしい彼を、制服のまま。
だから、彼がここに持ってきた荷物など、あのときに手に持っていた授業に使う教科書やノートの類のみだ。

衝動的な行動とも言えたが、実はある程度予想していたことでもあった。
会えば浚ってしまうのではないかと、頭の冷静な部分で考えていた。
予想外だったのは、何かを感じたのだろうか、そのとき寮の方からこちらに走ってきたムッシューの存在だった。
明日叶の話を聞くと、自分の帰りをずっと待ってくれていたらしいムッシューに、 ディオは少し悩んだ後、一緒に来るか?と開いた車のドアを指して聞いてみたのだが、 彼は迷うように暫く足踏みした後、尻尾を振りながらも、その場に座って一声「ワン」と答えた。
円らで優しい目は、この学園が自分の居場所だとはっきりと主張していた。
そんな彼をディオはひとしきり撫でて、それから「明日叶を連れて行く」という走り書きのメモだけを、 ムッシューに託すという形でその場に残してきた。
本当に賢い犬だから、彼は咥えたメモを、もっとも適切な人物…チームグリフのリーダーだった二階堂亮一のもとへと 届けてくれるだろう。
メモを見た亮一がどう動くかはわからないが、彼なら最善の道を選択してくれるだろうと信じていた。

可能であれば亮一を始めとしたチームグリフのメンバーには一声かけていきたいところだったが、 彼らが今も美学行動科に籍を置いているのであれば、今の自分と関わることはマイナスにしかならない。
本当は、明日叶にも同じことが言えるのだが、彼に関してだけは我慢がきかなかった。
もはや手を伸ばさないという選択肢はない。
そうして、捕まえてしまえば、二度と明日叶を手放す気はなかった。
たとえ記憶がなくても。トゥルーアイズがなくても。

トゥルーアイズの力については、余計な組織に狙われることを考えれば封じられたままでいいし、 記憶に関しても、いっそ思い出さない方がいいかもしれないと思った。
自分とのこれまでのことを思い出してほしいとは思う。
けれどそれ以上に、もう彼を一欠片でも傷つけたくなかった。

ジャディードで明日叶がホークに受けた扱いは後で知った。
はらわたが煮えくり返るかと思った。八つ裂きにしても足りない。
だから考え得る、相手にとって最悪の方法で報復をした。
それほどの辛い記憶と、それから――恐らくはパートナーである自分が行方不明になっていた間、 彼であれば自分のせいだと自らを責め続けたに違いないので――悔恨とを思い出させるのはあまりに酷だった。
明日叶にとっても、そして、それを見る自分にとっても。
それならば、何も思い出せなくてもいい。ただ、今度こそ自分の隣にいてくれればいい。
ディオがその結論に達するのに時間は要らなかった。

明日叶に再会して、彼の様子から現状を把握して。
それからの決断と行動は早かった。
何かが壊れたように涙を流し続ける明日叶を抱き締めたまま、一緒に来てくれと懇願にも似た囁きを耳元に落とし、 抱き上げた。
元々細身だった彼の身体が、以前よりさらに少し軽くなっていることに気付き眉根を寄せたのは一瞬。
「行こうぜ、明日叶」と声をかけると、明日叶は戸惑いながらも、ディオの行動を止めなかった。
抱き上げたときに咄嗟にといった感じで首に巻かれていた腕に、 僅かばかり力が篭もるのを、ディオは泣きたい気持ちで受け止めた。







◆◆◆







「ディオさん!冷めるよ?」
キッチンからだろう、大きく張り上げられた声に、ディオはハッと我に返った。
「っと、ああ、悪い、明日叶。今行く」
応えつつ、ディオは立ち上がり、扉を開けて自分を待つ明日叶のもとへと向かった。





「遅い!」
軽くこちらを睨んでくる明日叶は、本人の意向はどうあれ、ディオには可愛いとしか思えないものだ。
以前なら、『そんな可愛い顔で睨むなよ、ガッティーノ』などと拗ねた明日叶をからかっていたに違いない場面だ。
けれど。
「悪い悪い。待たせたな」
後ろを通り様、くしゃりと髪を撫で、こっそりと髪先に唇を落とす。
今できるのはせいぜいそれぐらいだ。

変わったのは、記憶のない明日叶のディオに対する態度だけではない。
ディオの明日叶への接し方も今までとは違うものになっていた。

以前も今も、大切であることに変わりはない。
けれども、今はガッティーノと呼んで戯れにからかうことすら躊躇われた。
少しつついただけで壊れてしまうんじゃないだろうかと不安になる。
彼自身の雰囲気が以前より儚いものになったのか、それとも自分の心情の変化なのかは定かではないが。

ただ、少なくとも、一度失った記憶が自分の中に恐れを生んでいることは確かだった。
「…癪だが、藤ヶ谷の気持ちがわかる気がするぜ」
自嘲気味に吐き出した。
「え?何か言った?」
「いーや、何もねえよ」
訝しげな表情を浮かべる明日叶に、ディオは笑って返した。

藤ヶ谷慧という男は、自分を研ぎ澄ましミッションをこなすこと以外には誰にも何にも興味を示さない男だと思っていたが、 そうではないことに気付いたのは明日叶が学園にやってきてからだった。
因縁のある男――グレゴリー・ホークに接したときに噴出した憎悪もあるが、 それよりももっと様々な感情を見せるようになった。
あの男は、こと明日叶のこととなるとまるで別人のようになる。
それを向けられている明日叶本人だけは気付いていないようだったが、 まるで真綿で包むような甘やかしぶりだと、以前の自分は嫉妬半分で苦々しく見ていたものだった。
今なら少し、あの男の気持ちが理解できる気がする。
幼馴染同士だった彼らの関係性と自分たちの関係はまた違うだろうが、相通じる部分はある。
一度失った。だからこそ、二度失う恐怖に耐えられない。
チキンと言われようが何と言われようが、もう一度彼を失うことに比べれば瑣末なことだった。


「…ディオさん。俺の顔に何か付いてるのか?」
食事の手を止めた明日叶の居心地の悪そうな声に、ディオは苦笑した。
どうやら凝視してしまっていたらしい。
けれど、目が、耳が、感覚が明日叶を追うのはもはや習性のようなもので今に始まったことではない。
つまり、これまではいかに上手く誤魔化していたか、そして今はそれができなくなっている、ということだ。

ともかく彼を安心させるために、何でもないと告げようとしたが、 それより早く明日叶が溜息を吐いて手に持っていたスプーンを置いた。
「明日叶…?」
「…なあ、もしかして何か俺に言いたいことがあるんじゃないのか?」
曇りのない瞳がまっすぐにこちらを見詰めてきたことに、らしくなく動揺した。
「ガ……明日叶…?」
「それ、とか」
明日叶はすっと目を伏せた。
「俺のことを呼ぶとき、たまに…何か別の呼び方をしようとしてる。それぐらい、俺にだってわかるよ」
「明日叶…」
「俺に記憶がないから、なんだろ?本当は俺のこと、何て呼んでたんだ?」
「待てよ、明日叶。俺はずっと…」
「いや、呼び方だけじゃない。態度だって、どこかおかしい」
「別に、おかしくはないだろう?」
心外そうに言い返しつつも、ディオは内心ひやりとした。
それでも何とか取り繕ったつもりだったが、明日叶は納得しなかったようで、焦れたように続けた。
「だって、ディオさんは俺のこと恋人だって言うけど…じゃあどうして俺に触れるときにそんなに緊張してるんだ?」
「…っ」

完全に不意打ちだった。
確かに、何気ない触れあいでも、指先が寸前で緊張することには自分でも気付いていた。
例えばどんなに高価で貴重で繊細な美術品に触れようともそうはならないほど、 指先が、果たして触れてしまってもいいものかと躊躇う。
しかし、まさか明日叶に気付かれているとは思わなかった。
思わず黙り込んだディオを見て、明日叶は悔しそうに唇を噛んだ。
「俺が思いだせないせいか?知らないはずなのに、わかるはずないのに、 違和感が消えない…!どうして…!俺は…俺は…っ!」
「明日叶!落ち着け!」
ディオは立ち上がり、頭を抱えて搾り出すように叫んだ明日叶に手を伸ばした。
触れる間際に、小気味良い音を立てて手が払いのけられた。
「そんな、壊れ物に触るような手で触るぐらいなら、最初から手を伸ばすな…!」
「あす…」
「だって、そんなの違うだろ!?そんなの、お前らしくない!ディオは、もっと…」

ぴたりと明日叶の動きが止まった。
沈黙が落ちる。
ディオは瞬きもせず、息を呑んで明日叶を凝視した。

明日叶は呆然と目を見開いて、口の中で繰り返した。
「『らしくない』…?『ディオはもっと』……?なんで、俺がそんなことを…」
自分でも、どうしてそんな言葉が口から飛び出したのかわからないらしい。
明日叶の目が不安と戸惑いに揺れる。まるであの並木道で再会したときのように。
ディオはたまらず手を伸ばした。
たとえ振り払われても、無理矢理にでも抱き締めるつもりだったが、明日叶は今度は大人しく腕の中に納まった。

明日叶の髪にディオは頬を寄せた。
「明日叶。確かに以前の俺たちと今の俺たちとは違う。 けどな、そんな違いを無視しちまえるほど、俺はお前に傍にいてほしい。わかるか?」
明日叶からの返答はない。
納得しているわけではないのはわかっていた。
感覚が告げる噛み合わなさに、もどかしさと焦燥感を抱いていることも。
けれど彼がそのことでもがき苦しんでいたとしても、その悩みを解消してやることはできない。
彼を髪一筋も傷つけたくないというのが理由の一つ。
そしてもう一つ。彼が過去の事実を思い出し、再び真実の目を手に入れることは、自分から彼が離れる可能性を高めるからだ。
以前の自分が見たら無様だと失笑したことだろう。
それぐらい、滑稽なほど、彼を失うことを恐れている。詐欺師が嘘もつけなくなるほどに。

「それに…」
片手で明日叶の目元を覆いながら、もう片方の手で背中から抱きすくめる。
「っ、く、苦…し…」
腕の中から上がった声に、ディオは少しだけ力を緩め、掌で明日叶の瞼を封じたままその顔をそっとのぞきこんだ。
「嘘を封じられた詐欺師と、目を塞がれたトゥルーアイズだったら…お似合いだろ?」
自嘲気味に呟いて、ディオは明日叶の唇にそっと触れるだけのキスを落とした。








2010.01.02





ED.07は、あの流れからほのぼの甘々な新婚さんに突入すればいいよとも思ったのですが、
やっぱりあのエンディングは何だか切ない空気が満ち満ちてるなぁとか考えていたら、こんな話になりました。。。










*** お手数ですがブラウザバックにてお戻りください ***