珍しい。
少し席を外した花は、戻ってきた執務室で孟徳がうたた寝しているのを見て、そう呟いた。
あれだけの激務をこなしているというのに、孟徳は基本的にあまり疲れた様子を見せない。
もっと甘えてくれていいのにと思うが、そう言うと孟徳は決まって「もう充分、俺は君に甘えてるよ」と
笑いながら花を抱き寄せる。
孟徳の腕の中は温かくて優しくて、花もつい、それ以上追及することなくその胸の中に収まってしまうのだが、
これだとどちらが甘えているのかわからない。
花は足音を精一杯消して孟徳に近寄った。
寝息を確認してほっと息を吐いてから、孟徳の頭に手を伸ばす。
早く疲れが取れますように。良い夢が見られますように。
そう祈りながら、起こしてしまわないようにそっと、髪の表面を滑らせる程度に撫でていると、
その手の下で孟徳が小さく笑った。
「…っ!」
起こしたかと慌てて身を引きかけるが、その前に落とされた「もう少しそのままで」という言葉に縛られ、
花は動きを止めた。
「孟徳さん、起きてたんですか?」
「いや、うとうとはしてたよ」
「…起きてたんじゃないですか」
拗ねたように言う花に、孟徳はうつぶせたまま目線だけを上げて「ごめんごめん」と苦笑しつつ謝った。
「俺が目を開けたら君が驚いて逃げちゃうだろうから、暫く寝たふりをしようと思ってたんだけど…失敗したなぁ」
ぼやく孟徳の姿はとても一国を支える丞相のものとは思えない。
花は笑いながら再び孟徳の髪に手をのばした。
「花ちゃん?」
「孟徳さん、最近また忙しくて、あまり寝られてないですよね?もう少しだけ休んでてください。
文若さんが来る前に起こしますから」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、せっかく君がいるのに寝ちゃうってのも勿体無いような…」
「勿体無くなんかありません!それより今は寝てください。私ならいつも傍にいますから」
そう言って半ば強引に目を閉じさせると、孟徳も抵抗することなくそれに従った。
「…ところで孟徳さん。さっき、どうして笑ったんですか?」
頭を優しく撫でながら、ふと花が心に浮かんだ疑問を口にした。
まだ寝入っていなかった孟徳は、「ああ、それね」とすぐに答えを返してきた。
「やっぱりあれは君だったんだって思ってさ」
「あれ?」
「うん。…花ちゃんがこの世界に戻ってきて俺の暗殺計画を止めてくれた日の夜、俺のところに来てくれたでしょ」
「え…は、はい」
「やっぱりね。どうもおかしいと思ったんだ。次の日、いきなり体調が良くなったから」
「体調…?あの…それと私がいたことが関係あるんですか?」
「うん、君といると癒される」
「え、でも私、何もしてませんよ?」
花は困惑気味に返した。
看病をした日のことであればともかく、孟徳が言っているのは、ただ、眠っている孟徳に会いにいったときのことだ。
当然、特に何かした覚えもない。
「うーん…こう言って、伝わるかなぁ…」
そんな前置きをしてから、孟徳は目は閉じたまま口元をふっと綻ばせた。
「君からね、優しい風が吹いてるんだ、俺に」
* * *
目を閉じたままの孟徳は、今花が浮かべているであろう表情を想像する。
本当は目を開けたいところだが、彼女が驚いて逃げてしまうと困るので今は我慢するとして。
きっと彼女は今、不可解だとか困惑だとかそんな表情を浮かべているに違いない。
それでも彼女の手は優しく孟徳の頭を撫で続けている。
彼女のそんなまっすぐで純粋な優しさと、自分に向けてくれる想いは、間違いなく孟徳を癒し、守ってくれる。
優しい手つきも、何気なく落とされた「いつも傍にいますから」という言葉も、
どれも彼女の飾らない本心で。
彼女が当たり前のように、惜しみなく与えてくれるそれに、自分はもうずっと甘えている。
気付かない彼女が時折、もっと甘えてほしいなどと言っているのが、微笑ましくも、少し可笑しい。
もっとも、だからと言って「甘やかしすぎだよ」などと教えてあげるつもりは勿論まったくないのだが。
狡い大人だという自覚のある孟徳は、優しい風に包まれたまま、暫しの微睡に身を浸した。
2011.01.23
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