文若の仕事を手伝い基礎的な能力を身につけた後、丞相府で孟徳の補佐…
と言っても、できることはまだまだ限られているのだが、
ともかく仕事の場で丞相としての孟徳を見る機会が増えるにつれ、改めて思い知ったことがある。
稀代の・・・
「孟徳さんって、本当にすごいですね」
「ん?いきなりどうしたの?」
感嘆の吐息混じりの花の言葉を拾った孟徳が、丞相としての厳しい表情を引っ込め、人懐こい笑顔で振り返った。
先ほどまでは各種法案の草稿や民からの嘆願書や他国の状況やら様々な情報を持った者が
入れ代わり立ち代わりやってきていたが、丁度それも一段落つき、
この執務室からは他の人間が全て出払ったところだった。
「さっきまで沢山の人が孟徳さんのところに来てましたよね。それを見て、改めてすごいなって思ったんです」
「何が?」
「いろいろな用件を専門家の人が持ってきてるのに、
孟徳さんはその全てを把握して的確に指示を出してますよね。それって、すごいことだと思います」
勉強すれば勉強するだけ、孟徳や文若のやっている仕事がどれだけ難しいものなのかわかる。
幅広い知識が要求されるが、もちろんそれも浅くてはお話にならない。
しかも孟徳は丞相府でおこなう執務をこなしながらも、必要に応じて戦場に立ち自ら兵を率いて戦うのだ。
文官としても武官としても突出した才を持つ、まさに傑物というより他はない。
そういえば、と花は孟徳との出会いを思い出す。
「そういえば、あの本の策…あの結果を覆したのなんて孟徳さんぐらいなんですよ」
過去、まだこの世界に入って間もない頃、花はあの本――九天九地盤の策を用いて、
博望にて十万の元譲軍を退け、さらに新野では孟徳軍を策で惑わし玄徳軍を逃がした。
それで玄徳軍は逃げ切れるはずだった。
けれどその直後、孟徳率いる精鋭軍の猛追は玄徳軍を捕らえ、一戦を交えることになった。
この世界においてあの本は、イレギュラーそのもので、戦の勝敗を決するほどの力を持ったものだった。
それにも関わらず、孟徳は結果的には己の力のみでその勝敗を覆したのだ。
さらにその後、花が孟徳軍に身を寄せてからのことを考えると、
本が花に教える策は確かにいつも成功を収めてはきたが、花がそれを献策しなくても、
孟徳の頭一つで既にほぼ同じ策を練っていたのではないかと思うことが多々あった。
「だから孟徳さんはすごいんだなって、今更ですけど、改めて思ったんです」
目をきらきらとさせて言う花に、孟徳は苦笑した。
「すごい、ね。君に褒めてもらえるのは嬉しいけど…」
孟徳の声にふと翳りがさしたことに花は気付いた。
「…まあ、化け物じみてると言われたことなら何度かあるよ」
「っ!」
雷に打たれたように立ち尽くしたのは一瞬のことで、直後、花は孟徳の傍に駆け寄った。
執務机についたままの孟徳が驚いた顔でこちらを見上げてきたが、構わずにその頭を抱きこむ。
「違います!」
湧き上がってきた衝動のままに叫ぶ。
怒りのような悲しみのような、もやもやした感情に衝き動かされ、
何だかわからないけれど浮かんでしまう涙を堪え、何度か唇を噛んだ。
「孟徳さんは…もちろん、才能とかそういうのもあると思いますけど…
それでも、いつも孟徳さんにできることを、皆のためにやるべきことを、
がんばってやってきたから今の孟徳さんがいるわけで…それを、そんな風に言うのは…っ」
ああ、そうだ。悔しいのだ。
孟徳のことを、血の通った人間ではなくまるで鬼か悪魔のように吹聴する者たちがいることを知っている。
彼らには彼らの事情があり真実があるのだとわかってはいるが、
それでも、孟徳のことを何も知らないくせに、と思ってしまう。
誰かがそんな風に孟徳のことを悪く言うのが悔しい。
そのことが孟徳を少しでも傷つけることが悔しい。
孟徳の心を守れない自分が、何と言っても一番腹立たしくて悔しい。
孟徳はいつも自分のことを他の何物からも守ってくれているのに。
「…ごめんなさい」
孟徳の頭を抱きこんだまま、そう言葉を落とすと、腕の中でしょうがないねと言いたげな、
笑いを含んだ優しい溜息が漏れた。
「おかしなことを言うね。どうして謝るの」
「…だって…」
「逆だよ。…ありがとう。花ちゃん」
「え…」
「君がそうやって俺のことを考えて、俺のために怒ってくれたり、
笑ってくれたりすることが、どれだけ俺を幸せにするか、君だけがわかってないんだよね、きっと」
そういうのも君らしいとひっそり笑われて花は口を尖らせる。
けれど、孟徳の声には先ほどの影はもう見当たらず、そのことに何より安堵した。
――が、続く孟徳の言葉で、花は漸く理解することになる。
「ところでさ、花ちゃん。これは随分と積極的な、お誘いだと思っていいのかな?」
「え?」
見下ろすと孟徳の己の腕の中にふわふわとした頭が目に入る。
つまりはそれを胸の中にぎゅっと抱き締めているわけで。
自分の行動の大胆さに気付いた花は、かあっと顔を染める。
「あああああの、えっと、ち、違うんです、これは…っ」
慌てて頭を放り出そうとするが、いつの間にか背中に回されていた孟徳の腕が、花が逃げることを許さない。
「そ、そ、そんなつもりじゃなくって…って今は執務中でここにはいつ誰がくるかわからないわけで…っ!」
真っ赤になって叫ぶ花の様子に、孟徳が耐え切れなくなったように吹き出した。
「も、孟徳さん!?」
「っは…本当に君は面白いよね。大丈夫。安心していいよ。
基本的に俺は君の嫌がることはしないから。
それにもうじき文若があのいつもの気難しい表情をぶら下げて戻ってくるだろうしね」
言いながらも合間に笑い声が混じっている。
「そ、そんなに笑わなくても……ひどい…」
軽く拗ねてしまった花を、笑いは収めて柔らかい表情で見上げた孟徳が、
「でも、まあ…」
ふっと伸び上がって、唇を掠め取った。
「!?」
「これぐらいは許してくれるよね。俺をあれだけ煽って舞い上がらせたんだから」
そう言って甘えるようにぎゅっと抱き締めてくる孟徳に、
抵抗したものか怒ったものかどうしようかと真っ赤な顔のまま暫く考えた花は、
結局、目を閉じて孟徳の腕に身を寄せた。
この甘くて甘くて柔らかい空気は、執務室に戻ってきた文若のいつもより二割増険しい仏頂面と、
呪詛でもはきかねない声音での「ここをどこだと思っておられるのですか」というお小言により
見事に粉砕されることになるわけだが、それはまだもう少し後の話。
2010.11.20
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