殿下、王子、坊ちゃん、ボンボン、カナン様―――

それから、


「カナン」

不意打ちだった。
つい先日知り合ったばかりの男に敬称も何もない形で名前を呼ばれ、 不覚にもひどく動揺してしまった後、隣の男はどう思っただろうかとカナンは脇に控える青髪の青年をちらりと見上げた。
果たして、腹立たしく思うべきなのか安堵するべきなのか―――
そこにはいつもと何ら変わりのない表情の彼がいた。












名を呼んで










遺跡の探索から戻ってきた市長邸の室内で、カナンは窓辺に腰掛け頬杖をついた。
空では数多の星が瞬いている。
その体勢で溜息を吐くと、丁度そのとき部屋に入ってきたセレストが困ったように顔を顰めた。

「カナン様、お行儀が――」
「…」

注意に応えるでなく、振り返ってただじっと見つめる。

「な、何でしょう」

予想通り、セレストは若干顔を引き攣らせながら笑みを浮かべた。
こういうときは無駄に表情が読みやすいんだが、とカナンは密やかに嘆息しながらふいっと顔を逸らせた。

「カナン様?」
「…お前は……」

言いかけて言葉を濁す。
わかっている。原因はセレストではなく自分なのだと。

第二王子としての立場も責任も自覚しているつもりだ。
いくらのんびりした国民性を持つ国とは言え、やはり王子は王子。
世継ぎでなくとも、民を守り束ねる立場にある者として丁重に扱われてきた。
それを孤独と捉えなかったのは、幸運なことに優しい家族と従者がいたからだ。

カナンが誰より近しく感じている従者セレストは、真面目な性分からか、 主君たるカナンの前で従者としての礼節を忘れることはない。
お説教や、お仕置きとして耳を引っ張られることはあるが、少なくとも敬称をつける呼び方だけは変えたことがない。
城の中だけでなく、ダンジョンの中でも。
つまりは従者のときだけでなくパートナーのときも。…恋人としての時すら。
それでも彼がカナンのことを大事に思っていてくれるのは疑う余地もない話だったから、 今まで不満に思ったことはなかったが。


「…僕は欲張りなのかもしれないな」
「え?何かおっしゃいましたか?カナン様」
「…いや、何でもない」

エルダーに名を呼ばれたことで気付いてしまった。
そんな風に呼ぶのは家族と、ローウェルのような昔からの知り合いだけだったから、 それ以外の人間に名を呼ばれることには免疫がない。
過剰に反応してしまったのはつまりそういうわけで。
だが動揺の裏に確かに嬉しいと思う気持ちがあったのも事実だ。

(だって、何だかとても親しそうだとは思わないか?)

再び、ちらりとセレストを見る。
今度は、何か感じるところがあったのか、セレストもいつもの真面目な表情でこちらを見返してきた。
暫し見詰め合う。


昼間、エルダーに名を呼ばれてひどく動揺したカナンに比べ、 カナンの見たセレストはそのことにはさほど反応を示していないように見えた。
名の呼び方にはそれほど拘っているわけではないのだろうか、とカナンは思う。

(それなら――)



カナンの呼びかけが、続いていた沈黙をあっさりと破った。

「なぁ、セレスト」
「何でしょう。カナン様」
「違う」
「は?」
「僕の名を呼んでみろ」
「は、いや、あの、ですから、カナン様と…」
「ちーがーう。カナン、だ」
「え、ええっ!?」

些かオーバーリアクション気味に後ろに飛びのく従者を、失礼な、と軽く睨むとカナンは再び要求を口にした。
するとセレストは、主君を呼び捨てになどできません、恐れ多い!だとか何だとか言って慌てて首を振った。


予想はしていたがここまで拒否されるとさすがに…

「…セレスト」
「カナンさまっ、そんな風に脅されてもできないものは…、って…な、何ですかっ?」

ずずいと近づいて、そのままぎゅっと抱きついてやると、従者のトーンにはさらに焦りが加わった。
その割に、条件反射的に支えるようにカナンの背に手を回すあたりはさすがというべきか。

「さて、僕の名を呼ぶのと、この体勢のまま大声を出して人を呼ばれるのと、どちらがいい?」
「な、な、なんてことを仰るんですか!」
「お前が僕の名前を呼べばいいだけのことだろう」
「…っ。できませんよ!私はカナン様の従者ですよ?そんな不敬な…」
「僕が良いと言っているんだ。それでもか?」
「それでもです!」

むーと唸ると、カナンは胸に預けていた顔を上向かせてセレストを仰ぎ見た。

「今はパートナーだろう?それでも…駄目、なのか?」
「……!」

セレストの困惑する気配が伝わってきた。多分、迷っている。
内心の葛藤を表すかのような複雑そうな表情に、カナンはさらに畳み掛ける。

「もし、だぞ?僕の身分がバレては困るような場合に、だ。お前が僕を様付けで呼んでいては 不自然だと怪しまれるだろう?だから、そのときは様抜きで呼んでもらわなくてはならない。 その予行演習だとでも思って」
「〜〜〜〜っそ、そのときはそのときで…」

だいぶ、ぐらついている。そう判断したカナンはふふふと笑みを浮かべると最後の一押しとばかりに囁いた。

「大声を、上げるぞ?」

セレストの肩ががくりと落ちた。
それから長いのか短いのかよくわからない間があって。


「…カナン……」
「――!!」

予測していたはずなのに、それでも心臓がどくんと跳ね上がった。
カナンは口元を押さえて俯いた。
心臓がばくばく音を立てる。それに顔がとても熱い。
たったこれだけのことで。


何だか、何ていうか、何だってこんなに―――



「……さま」
「は?」


不自然なほどに長い間の後、付け加えられたいつも通りの敬称に、 カナンは思わず真上にあったセレストの顔を振り仰いだ。

けれどその視線はカナンの方を向いてはおらず、寧ろ正視できないといった風に微妙に逸らされていて。
そして顔色はカナンと同じぐらいに真っ赤だった。
あ、と思う間もなく、セレストはカナンの体に腕を回したままへなへなと床に両膝をついた。

「…だ、駄目です。どうかお許しください」
「……」

しゃがみ込んでいるせいで、いつも見上げる男の顔が自分の胸の中ほどにある。
ピンピンにはねる青髪の隙間に見え隠れする耳はやはり赤い。
しかし、カナンの方にもそれを冷静に観察する余裕はなかった。

「う、うむ」

曖昧に頷くと、微妙なニュアンスに気付いたのかセレストがこちらを仰ぎ見ようとする気配に、 カナンは慌ててその動きを封じた。
その頭を両腕で抱きしめるように抱え込むことで。

「カ、カナン様!?」
「なんでもない!いいから…っ」
「は…、あの、何が…」
「名前だ!その…いつも通りの呼び方で、いいから…っ」

何だかわからないが、とにかくめちゃくちゃ恥ずかしい。
こんなことをしていては心臓がもたない。


ともあれ今はいつも通りで充分だという結論に達したカナンはもう一度、 今まで通りの呼び方でいいから今言ったことは暫く忘れていろと言い置くと、 まだ赤みの引いていないであろう顔を見られないために腕の中の従者の頭を暫しぎゅうと抱きしめた。























2005.09.24/紫


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