風が走る草原に、ひとりの人が立っていた。 膝丈ほどまである草が周囲でざわめいていたが、それに気を留める様子はない。 背にかかるほどの髪を後ろで一つに結わえ、布をたっぷり使った大き目の衣服に身を包み。 金の髪と白い服の裾を風に遊ばせながら、その人は沈み行く夕陽をじっと見詰めていた。 やがて地平線に太陽がその姿を隠す頃、その人は青い目を眇めて小さく小さく呟いた。 「誰か…呼んで、る…」 けれど、その声に応えるものは何もなく。 首から下げていた緑色の石をきゅっと握り締める彼の頭上では、西の空に広がる紅を、ゆっくりと闇が押し流していった。 |
「姫ー!」 遠くから聞こえてきた元気の良い声に、金色の髪をさらりと揺らしながら振り返る。 薄暗い上に遠目だが、その声が駆けてくる人物が誰かを教えた。 「…アニス?」 「もう、姫ったら!もうすぐお店開く時間だよ!一番売れっ子の姫がいなきゃ困るじゃない! 姫が注文取ったら皆、いつもの倍ぐらいお酒頼むんだから」 「ああ、すまない。ところで…再三言うようだが、僕は男だから姫というのはやめてくれないか?」 「なぁに言ってんのよ!女のあたしより綺麗なくせしてさ!大体他に呼ぼうにも名前……」 言いかけて、ハッと気まずそうな顔をして黙り込んだ少女に、彼は気にするなというように微笑んだ。 「僕が自分のことをまだ名前すら思い出せないのはアニスのせいではないだろう。何も気にすることではないぞ」 「うん――。でも、ごめん」 「いいと言っているのに。さて、それでは店に戻ろうか。早く戻らねば女将の雷が落ちるからな」 そう言ってもう一度笑うと、彼はアニスを置いて、店に向かって駆け出した。 「あ、ちょっと!待ってよ!」 慌てて追いかけると、元々待ってくれるつもりだったのだろう彼が首を傾げるようにして振り返り 「行くぞ」と声をかけてくるのに、アニスは「へへへ」と嬉しそうに笑った。 アニスが彼を最初に見たのはもう何ヶ月も前のことだが、そのときは本当にショックだった。 これでも昔いた村の女の子の中では一番可愛いと言われていたのだ。 それこそ姫扱いされていた。 そのせいで町の酒場に行くことになったとしても、自分のこの容姿を使って稼ぐことで 家族が少しでも裕福になるのであればと思えば逃げ出しもせず大人しく店に向かった。 酒場で働くとは言ってもただ給仕をするだけでないことは承知していた。 それだけの仕事にしては金払いが良過ぎたから、まさに身売りをするのだろうと漠然とわかった。 お店に行くとやはり他にも何人もの女の子がいて、実際に客の指名があれば夜の相手をすることもあったが、 その指名の数も自分が一番だったから、空しいとは知りつつ自分はここでも姫なのだと妙な優越感を感じたりもした。 けれど、ある日彼が現れた。 店の近くの草原にまさに突然「現れた」彼は、そのとき白いマントに包まれて緑に守られるようにして気を失っていた。 金色の髪に白い頬。今まで見たこともないほど整った造作はまるでお人形のようで、 たまたま彼を発見したアニスは息を呑んで恐る恐るその顔を覗き込んだ。 すると人の気配を察したのか、金色の長い睫毛がぴくりと震えて緩やかに瞼が開いた。 ゆっくりと開けられた瞼の奥から現れたのは湖のように澄んだ青い瞳。 間近から目が合って思わず息が止まった。 「姫」というのはこういう人にこそ相応しい呼称なのだと思い知らされた。 とはいえ、実際彼は男だったのだから「姫」というのもおかしいのだが。 なぜか「王子」よりも「姫」という言葉が浮かんだのは、倒れていた彼の様子と、 それから目覚めた瞬間の表情がひどく儚げに見えたからかもしれない。 ともあれ、あっさりと彼女から「姫」としての自信を根こそぎ奪い去った彼だったが、 アニスの中では嫉妬心よりも憧憬の方が勝った。 しかも意識を取り戻した彼は何度か目を瞬かせた後、無防備にアニスを見つめてきたものだから、 元々姉御肌だった彼女の心の奥に生まれかけた敵愾心は霧散した。 彼は名前も出身も、そのとき手に負っていた傷のことも何ひとつ覚えていなかった。 身に付けた衣服から冒険者のようにも見えたが、それにしては一挙手一投足に品があり、 話す言葉にも教養が感じられたから、ただの冒険者とも思えない――というのは酒場を取り仕切る女将の談だ。 男勝りだが美人で話のわかる彼女は酒場の女の子たちの姉貴分といったところだった。 このときもアニスの懇願するような視線に溜息をつきながら、 暫くオーナーには内緒で酒場ので彼の面倒を見ることを約束してくれた。 たまに店に姿を見せる酒場のオーナーである男は粗暴な上好色で嫌悪しか感じない相手だったが、 アニスたちのリーダーとして働く彼女がいろいろ面倒を見てくれたからこそ、 仕事が辛くても誰も逃げ出そうとしないのかもしれない。 そうして彼を酒場に迎えて数日が過ぎた頃、酒場内では誰が言い始めたか、 皆が自然と彼のことを「姫」と呼ぶようになった。 彼自身は戸惑ったり憤慨したりしていたが。 けれど彼に見合う名前を誰も思いつかず、結局その呼び名が定着した。 彼自身は最後まで抵抗していたが、嫌ならさっさと思い出せという 女将の愛の鞭の前に白旗をあげた。 それから素性について何も手がかりも得られないままさらに数週間が過ぎ、 やがて彼は酒場でアニスたちと同じように働くことになった。 アニスらも女将も、誰も過剰に富を持っているわけではないため、いつまでも酒場でただ預かっているわけにもいかなかったからだが、 直接の原因は店によく来る上客らが彼の姿を偶然見かけ、オーナーへ打診をしたからだった。 アニスは飛び上がらんばかりに驚いて、次に血の気が引いた。 そんなつもりで連れてきたわけではない。 アニスや女将らは慌てて彼を逃がそうとしたが、彼は首を縦に振らなかった。 皆働いているのだから僕も働くと穏やかに言って彼は酒場に残った。 アニスはテーブルにビールを運びながら、目の端にちらりと映った白い蝶を追った。 彼が店に出るときに纏う、襞の入った白い長衣はすらりとした彼の立ち姿をさらに際立たせている。 飾り気の少ないそれは神官の纏うローブのようにも、姫君が身に着けるドレスのようにも見え、 彼の中世的な美に添っていた。 その白を纏ってテーブルの隙間を縫いながら注文を取る姿はまるで蝶のようだ。 流れる金色の髪からも光が零れるようで、自分だけでなく店の客たちの目が自然と彼を追うのがわかる。 「あ…」 ふいにアニスは顔を顰めた。 彼の手を、目尻を下げた町の有力貴族がしっかりと握っているのが見えたのだ。 何事かを囁いているが、どうせ碌なことではないだろう。 彼は困ったような愛想笑いを浮かべ首を横に振った。 しかし男の方はなおも何かを言い続けている。一言。二言。 「…!」 やがて、彼が諦めたように小さく頷いたのが見えた。 途端に、満足そうに嫌な笑いを浮かべながら、当然の権利とばかりに彼の細い腰に回される男の手。 きっと明日の朝にはあの男から多すぎるほどの額のチップが彼と女将とに渡されることになるのだろう。 アニスは唇を噛み締めながら眼前の光景から目を背け厨房に駆け戻った。 彼も自分もここで働いている以上、それは仕方のないことだったし、どうすることもできなかった。 彼がアニスの助けなど望んでいないということもわかっている。 こういうことは勿論初めてではなかった。 先程のようなことがあった次の日、いつもよりさらに白い頬で疲れたように戻ってきた彼が金貨の袋を、 今までの礼だと女将に渡そうとする現場と、 それはあなたのものよと言い頑として受け取ろうとしなかった女将の姿をアニスは偶然目にしたことがあった。 だが彼はいつまでも綺麗なままだった。 もう何ヶ月もこの薄汚れた酒場にいて、それでも白いままだった。 彼を取り囲む空気は何物にも汚されることなく清浄で、青い目の輝きは衰えることなくいつもまっすぐ前を見据えていた。 それでも、いや、だからこそだろうか。 こういう場面を見ると悲しくて、悔しくて、どうしようもなくなる。 駆け込んだ厨房の隅で、アニスは膝を抱えてしゃがみ込んだ。 「姫は、本当はこんなとこにいる人じゃないよ、絶対」 ぽつりと呟く。 自分はいい。納得してここにいる。第一今更他に行くところなんてない。 けれど彼は違う。きっと彼の居場所はここではない。 彼の存在自体が、こんな酒場でも、どんな簡素な身形でも、否応なく人目を引く眩い光を放っているから。 綺麗で強くて賢くて、そして優しくて。 彼はきっと、こんな所にいてあんな事をしていて良い人ではない。 「姫が待ってるんだから早く迎えに来なさいよ、王子…」 昔々に聞いた御伽噺なんて信じない。 けれど、自分では彼をここから助け出してあげることはできないから。 「王子でも、騎士でも、何でもいいから…っ。お願いだから、助けてあげてよ…!」 目の奥から、湧き上がってきたものをやりすごすために、アニスは暗い天井を睨むようにして見上げた。 -->TO BE CONTINUED...? 2005.10.10/九堂紫 …すんませんすんません。本当いろいろ御免なさい。(平謝り) |