白を基調に整えられた楽屋で、光也はバイオリンの弦を軽く弾きながら、ふうと息を吐いた。
溜息というより、自分を落ち着けるための深呼吸だった。
これまでにいくつか挑戦したコンクールの前も緊張したが、
日本での初コンサートとなるとまた少し違った種類の緊張感がある。
「この待ち時間が辛いんだよなー」
舞台に上がってしまえばそうでもないんだけど、とぼやいた光也は、
思い出したかのように上着の内ポケットから小さな袋を取り出した。
中に入っているのはチェスの駒――黒の騎士だ。
黒く光るナイトを机の上にカツンと置き、暫し眺める。
昔、…自分にとってはほんの数年前だが、実際にはまさに「昔」、
お守りと言って大事な友人に渡したこのナイトは、長い年月を経て、自分の手に戻ってきた。
それ以来、今度は自分が肌身離さず持っている。
何かあったときにはこれをじっと眺めてしまうのも、もう癖のようなものだ。
「仁…」
ぽつりと呟いたとき、ノックの音が響いた。
「光也サン!」
「生方!来てくれたんだな」
軽いノックと共に控え室を訪れた友人を、光也は満面の笑みで迎えた。
「当たり前ですよ。光也サンの凱旋コンサートなんですから、どこからだって駆けつけますよ」
どこか誇らしげに言う彼の、柔らかく眇められた目に、光也は苦笑した。
数年前、最初に彼と出会ったとき、その声に驚いた記憶は鮮明に残っている。
最近漸く、彼の声を聞いて正確に彼だと認識できるようになった。
そう思えるようになるまではずっと、他の人間を思い出し、期待して、
そんなことがあるわけないと我に帰り、漸く彼自身を認識するということを繰り返していた。
失礼な話だと思うが、それほどに光也にとって特別な人間に、彼は声がとても似ていた。
「そういえば入り口で、光也サンの高校のころの友人のかたと会いましたよ」
「ああ!あいつら来てくれたのか。だったら、こっちに顔出してくれたらいいのに」
「一応聞いてみたんですけどね。緊張するからやめとくって言ってました」
「何であいつらが緊張すんだよ」
「ははっ、あ、でも終わったら花束もっていくから伝えてくれって頼まれました」
「げー。マジかよ。あいつら花束なんて柄じゃねーだろー」
口ではそう言いながらも、やはり旧友がそうやって訪れてくれるのは嬉しい。
楽しみだなと思いながら、光也はふと目を伏せた。
「じーちゃんと…仁にも見てほしかったな」
「え…?」
「あ、いや、なんでもない」
訝しげに聞き返され、光也は慌てて手を振った。
焦って無意識のうちに一歩下がった拍子に机にぶつかる。
「うわっ」
軽い衝撃が来たかと思えば、カツーンと乾いた音が響いた。
「あっ、いけね!」
振り返ると、先ほど机の端に置いた黒のナイトが床に転がっていた。
バイオリンを持ったまま、慌ててそれを拾おうと身を屈めた瞬間、
「…っ!?」
ぐらりと眩暈が光也を襲った。
眩暈、の次に来たのは浮遊感。
目を開ければ一瞬の暗闇の後に、走馬灯のように景色が自分の周りを流れていた。
「ちょ…これ…って」
流れに翻弄されて体勢を整えるどころか、ゆっくり考えることもできない。
落ちているのか上がっているのか、何がどうなっているのかわからないこの異様な感覚は、覚えがあるものだった。
「まさか…また…!?」
はっとその可能性を思いついたとき、光也はぎゅっと目を瞑り、両手を握り締め、ただ一つを願った。
かつて別れた『彼』には、二度と会えないと思っていた。
その後の『彼』の足跡についても知っている。
けれど夢でも何でもいい。
もう一度、会えるものなら会いたかった。
「仁…!!」
できることなら、もう一度、彼に―――
一目でもいいから、彼に―――
身体を包んでいた奔流が不意に動きを止めた。
光也は恐る恐る目を開ける。経験があるせいか、今回は前ほど気分は悪くない。
多少は頭がくらくらするものの、やり過ごせそうな程度だ。ほっと無意識に詰めていた息を吐く。
が、目を開けた途端にぎょっとした。
「浮いてる…?」
そろりと足を上げてもう一度下ろす。何も見えないのに確かに足は地面を踏みしめた。
透明な床のようなものがあるとでも言えばいいのだろうか。
「もしかして、夢…なのか…?」
少しがっかりするが、気を取り直して辺りを見回すと、
眼下には土と砂と岩だけの風景が広がっていた。
ところどころに黒い煙が上がっている。
そんな景色が、まるで映像のように光也の前にあった。
「何だ、ここ……砂漠…?どこかで見たような…」
どこかで見たことのあるような、ないような風景。
とにもかくにも現実感が薄い。
どうやら以前のように完全に別の世界に入り込んだわけではないらしい。
あるいはただの夢なのかもしれない。
光也はふっと苦笑を浮かべた。
夢だとしたらかなり重症だ。
思い出した。この景色は、以前、人伝に聞いた仁の足跡を調べていたときに見た写真の風景に似ている。
彼が戦死したと思われる北アフリカ戦線の、戦地の写真。
それを夢の中に投影したのだろうか。
「…夢、だったら、仁に会わせてくれてもいいだろうに」
呟きは、自分でもわかるほどに気落ちしたものだった。
『大尉!』
『ベルディーニ大尉!しっかりしてください!』
突然、光也の耳に、風に乗っていくつかの声が届いた。
声に誘われて、光也は頭を巡らせる。
そうすると岩陰に集まる兵士たちが見えた。
遠目だが、はっきりと彼らの姿を捉えることができた。
光也は彼らの様子をじっと窺った。
彼らは一人の人間を囲んで何やら口々に叫んでいる。
彼らの中心で血を流し倒れている一人の士官が、察するに「大尉」と呼ばれている人物なのだろう。
年齢は三十台半ばというところだろうか。
周りの反応から見て、下の者に随分と慕われているのだと一目でわかった。
煤で汚れてはいるが端正な顔立ち。
かけた眼鏡は、今は大きくひび割れてしまっている。
ひどい怪我をしているようだが、表情は苦悶に満ちたものではない。
むしろ穏やかさすら感じさせる表情を浮かべている。
その彼の右手がぴくりと動いたかと思うと、緩慢な動作で自らの心臓の位置まで移動した。
胸ポケットの上に手のひらを重ねると、指先に僅かに力が込められたようだった。
そこに入っている何かをポケット越しに握り締め、満足したようにほっと息を吐き、そうして彼はうっすらと目を開けた。
瞼の奥から現れる、深く澄んだ緑色の目。
どくんと心臓が音を立てた。
「じ……ん?」
光也は呆然と立ち尽くし、目を瞠った。
別れた頃の彼とは違うが、それでも見間違うはずがない。あの色。
自分が知っている彼の、未来の姿であると瞬時に確信した。
「……っ!仁!」
駆け寄ろうとするが、ガラスの壁のようなものに阻まれて近付くことができない。
見えない壁を、光也は拳でがんがんと叩いた。
「仁!仁っ!!」
『こんな、お話にならないような戦力差で、それでも我々が戦ってこられたのは、大尉のあの言葉があったからなんです』
『そうですよ!仰ったじゃないですか!大事な人のために、世界を守るんだって!』
『その言葉があったから戦ってこられたんです!希望のないこの戦いも、
大切な人のいる世界を守るためだって思えたから…!』
『それなのに、その大尉がこんなところで…!』
耳に届く嘆きが、光也の心をさらに焦らせた。
「仁!仁仁仁!仁!」
狂ったように彼の名を叫ぶ。
信じたくはないけれど、わかってしまった。
多分これが仁の最期の時なのだと。
ずっと思っていた。
もう一度彼に会いたい。
できることならずっと一緒にいたい。
けれど、それは叶わない願いだった。
だから、せめて。
まだ生まれてもいない時のことなのだから到底不可能だが、それでもずっと思っていた。
願わくば。
せめて彼の最期に立ち会いたかったと。
その場にいれば、一人で逝かせたりしなかった。
側に居て、見守っていることぐらいはできたのに。
せめて同じ時代なら、どんなに遠くても、どんなに危険でも、彼の側に行ったのに。
「仁………っ」
今すぐ彼に駆け寄って、名前を呼んで、触れて―――
気は急くのに、何一つ実行できない。あんなに願ったその場にいるというのに。
どんなに叫んでも声は届かない。
近寄ることもできない。
ただ見ているしかない。彼の命が消えてゆくのを。
その機会が与えられたというのに、自分には何もできない。
「あ……ぁ…!」
見開かれたままの目から滂沱の涙が流れた。
光也は見えない壁に拳を叩きつけたまま、がくりと膝を付いた。
膝を付いた瞬間、足元でカタンと小さく音が鳴った。
音につられて虚ろな眼差しをゆっくりと落とすと、見慣れた栗色が見えた。
そういえば、あの奇妙な浮遊感を感じる直前まで手にしていたのではなかったか。
「…オレの、バイオリン…」
一緒に落ちてきたのだろうか。
手を伸ばす。
しっくりと馴染んだ感触に少しばかり平静を取り戻した光也は、愛器をゆっくりと構えた。
例えば今回の演奏会で演奏する予定だった曲、あの頃仁が好んでいた曲、選択肢はいろいろあったのだろう。
けれど、このときはたった一つしか頭の中に浮かばなかった。
左の指先を弦の上に置き、右手で弓をゆったりと滑らせる。
「主よ、人の望みの…喜びよ……」
彼に出会う前から好きだったこの曲は、あの後、さらに大事な曲になった。
再びヴァイオリンを弾くようになった光也が、最初に引いたのもやはりそれだった。
小さい頃に慶光に楽曲の解釈や意味を教わったときは、正直に言うとよくわからなかった。
ただ、昔から、この信頼と愛情に満ちて、温かく包み込むような旋律が光也は好きだった。
目を閉じて、一音一音を大事に奏でる。
旋律は、暗く淀んだ戦場を、風のように吹き抜けた。
◆ ◆ ◆
仲間たちの声にも反応しなかった緑の瞳が、ふと何かを探すように虚空を彷徨った。
「ベルディーニ大尉!?」
「大尉!しっかりしてください!」
「…待て!静かにしろ!大尉が、何か仰っている…!」
そうして訪れた静寂の中、血の滲んだ唇が小さく動いた。
兵士の一人が眉を上げる。
「…ツ…ヤ……何だ…?大尉のお国の言葉か?」
「いや、違う……ミツヤ、だ。名前、じゃないだろうか」
食い入るように口の動きを追っていた兵士たちは、ふと耳に音楽を捉えたような気がして、顔を上げた。
この場所にもっとも似つかわしくない、澄んだ音色。澄み切った、けれどとても温かい。
「おい…何か聴こえないか?」
「ああ、音楽…みたいな…。まさか…」
困惑してお互い顔を見合わせる。
「……空耳、かもしれないが、…でも、きれいな音楽だな」
包み込むような柔らかな調べは、ささくれ立っていた気分を癒すように彼らの間をすり抜けていく。
「…優しい音だ…温かい」
「なんだろう…懐かしい感じがする…」
彼らは調べに耳を澄ませ、あるいは肩を震わせ、あるいは静かに涙した。
ベルディーニ大尉――かつて春日仁と呼ばれていた男は、
これまで肌身離さず持ち歩いていた黒のナイトを握り締める手に力をこめた。
既に身体を起こす力はない。五感も鈍ってきたようだ。
けれど、どうしてだかこの旋律は、この音だけははっきりと耳に届いた。
「光也…」
昔、聞いた音。
まっすぐで、時折無鉄砲で、けれどとても優しい彼の人柄をそのまま表すかのような音。
これは彼のバイオリンの音色だ。
「そこに…いるのか…?光也…」
そう問いかけたつもりだが、明瞭に発音はできていなかったかもしれない。
かさついた喉から押し出された空気がひゅうと音を立てた。
視線を動かし、霞む視界に彼の姿を探す。
やがて、仁は「ああ」と微笑んだ。
「光也…おまえ、そんなところにいたのか」
あのときより少し大人びた顔立ち。少し伸びた髪。
ろくに手入れもしてなさそうだったのに絹の手触りを伝えるあの髪を触るのが、そういえば自分は好きだった。
「光也、泣いているのか…?」
髪と同じく黒い瞳は、濡れていても美しかった。
けれどやはり彼には笑っていてほしいと思う。
自分にとっての彼はまさに名のごとく光そのものだったのだから。
そんな彼にはきっと泣き顔より笑顔の方が似合う。
「泣くな、光也。…お願いだから、笑って」
泣きながらバイオリンを弾く光也に、仁は少し困ったように手を伸ばした。
◆ ◆ ◆
光也はバイオリンを弾く手は止めないまま、嗚咽を噛み殺して仁を見下ろしていた。
彼の緑の瞳は、はっきりと自分に固定されていた。
唇が動く。彼の声が優しく紡がれる。
『笑ってくれ、光也』
「仁…」
笑おうとして、失敗した。引き上げようとした口元は引き攣って思い通りに動いてくれない。
彼が自分に気付いてくれた。そのことが嬉しい。
泣いていると彼に心配させてしまうのだということもわかっている。
けれど、何よりも彼の存在がこの世界から失われる痛みの方が上回っていた。
笑えるわけ、ないだろうと言おうとした光也は目を瞠った。
仁の周りにいる兵士たちも同様に驚きの表情を見せている。
彼らにはこちらの姿は見えていないのだろう。だが、もうほとんど身体を動かすことができないはずの仁が、
両腕を高く挙げ、空に差し伸べたのは、彼らの目にもはっきりと映っていた。
『光也』
困ったような顔で、こちらに手を伸べてくる仁に、光也は唇を噛み締めた。
それから、ゆっくりと笑った。
細めた眦から、溜まっていた涙が頬に一筋の跡を残した。
けれど、今度はちゃんと笑えた、と光也は思った。
「仁、仁…ありがとうな。あの世界でお前と会えたから、オレ、前に進めたんだ。
お前に会わなきゃ、ずっとあの場所から動けないままだった」
あのとき、言い切れなかった言葉を伝える。
感謝と、想いと。
言葉にならない感情はこの音色で彼に伝わっているだろうか。
光也の視線を正しく受け止めた仁は、もう困った表情をしていなかった。
ただ静かに微笑んでいた。
『光也。僕は最後まで幸せだった。おまえのおかげだ。ありがとう。だから、お前も、どうかずっと、幸せでいて―――』
天に向かって伸ばされていた仁の腕から力が抜けるのと、光也が最後の一音を奏で終わるのはほぼ同時だった。
「仁…」
弓を下ろした光也は、ぎゅっと目を瞑り、地面に手をついた。
「―――光也サン?」
はっと光也は目を開けた。
「え…」
まず目に入ったのは、透明ではない、白い床。
ぎゅっと握り締められた手を開くと、黒いナイトがあった。もう片方の手にはバイオリンを握っている。
「どうしたんですか?光也サン」
「あ…」
のろのろと身体を起こすと、心配そうな友人の顔が目に入った。
「生方…」
顔にかかった前髪をかきあげて、ああそうかと思う。
机の上から落ちたこのナイトを拾おうとしたところで、眩暈に襲われたのだ。
「夢か…?いや…」
けれどまざまざと脳裏に甦る、あの緑色の深い眼差しと、あの声。
空想では有り得ないほどに、間違いなくあれは『彼』だった。
「大丈夫ですか?」
そのとき再三かけられた声に、光也は慌てて立ち上がった。
「あ、っと…悪い!ちょっとぼうっとしてた」
「…そうですか?何かあるなら、ちゃんと言ってくださいね」
この友人の心配性と世話焼きは彼からの遺伝だろうか。
光也は小さく笑った。
「ああ、うん、何もないって。ちょっと緊張してただけ。もう大丈夫」
「それならいいですけど」
まだ少し疑いの目を向ける友人の肩越しに、ドアのノック音が飛んできた。
「相馬さん!スタンバイお願いします!」
「あ、はい!わかりました!」
「じゃあ光也サン。客席から見てますね。がんばってください!」
「ああ、サンキュ!」
友人の激励に親指を立てて返した光也は、彼の舞台に向かって歩き出した。
手にはバイオリン。
内ポケットには、今は自分にとってのお守りとなった黒のナイト。
そして、いつまでも色あせない彼のあの緑の眼差しと、彼からの最後の祝福の言葉とを胸に。
「仁…オレも、お前に負けないように、頑張るから。自分の道を歩いてみるから。だから、最後まで見てろよ」
呟けば、
『もちろん。嫌だと言われても最後まで見ててやるさ』
と彼の声が聞こえた気がして、光也は目を細めて擽ったそうに笑った。
-----------------------
2008.09.15
唐突に、勢い任せに書いてみました。
勢い任せなのでちょっと……かなり……だいぶ?荒いですが。orz
|