この想いが、恋であったなら良かったのに。
たった一人、今までそこにいた人がいない。それだけで世界がやけに寒々しく感じる。
ふと、仁は白い息越しに己の手を見下ろした。
まだこの身には彼の感触が残っている。
けれどもう彼はこの世界にはいない。
未来に帰ったなんて、そんな非現実をどうしてだか受け入れられたのは、
彼がもうここにはいないことを感覚が告げているからだ。
彼からは沢山のものをもらった。
目に見えない、だからこそ壊れることも失くすこともないものたち。
他者を慈しむ心も許す心も想う心も、今この身に宿っているのは全て彼のものだ。
いつもいつも、彼を見ていると自分の狭量さに嫌気がさした。
それほどに、彼はいとも簡単に胸襟を開いて他者を受け入れていた。
「僕には、十何年かかってもできなかったのにな」
それでも、悔しいと思う前に口元が綻んでしまうのも彼の人徳だろう。
人徳というほど大層なものではないと彼なら言うだろうが、あのお人好しっぷりは、
あそこまでいくと天賦の才ではないかと思ったものだ。
愛すべき才能。彼だけの。
仁はぎゅっと手を握り、黒い空を仰ぐ。
「幸せになれ、か…」
彼の残した言葉。残された彼の唯一つの望み。
自分に幸せになれと言うのなら。それならば未来に帰るな、
僕のそばにいろと言いかけた台詞は辛うじて呑みこむことができた。
彼のいない世界で幸せになることは難しい。
けれど、それが彼の望みだというのならば。
「…叶えないわけにはいかないだろう?」
たとえどんなに難しいことであっても。
自分の幸せのために努力することなんて考えたこともなかったが、彼のためと思えば頑張れる。
「幸せになれるよう、…努力するよ」と小さく呟く。
もう言葉は届かない、彼に向けて。
そうして未来で、自分が前向きに生きたことを知った彼が、少しでも笑ってくれたらいい。
「だからどうかお前も幸せに」
無上の幸せが彼のもとに在ればいい。
それだけを願う。
例えば、胸からあふれそうなこの想いがただの恋情であれば、未来のことも周りのことも関係なく、
ただ抱いて奪って離さなかった。
けれどそうではなかった。
恋より静かに穏やかに育ったこの想いは、深く深く心の奥底に根付いていた。
激しく燃え上がるものではなかった。けれど、ただひたすら深く深く、絶対に消えない刻印のように。
手に残る、ただ一つの、彼がこの世界にいたという証。
体温が移った、じんわりと温かい黒のナイトに仁はゆっくりと唇を落とした。
「光也…」
この想いが恋であったなら良かった。
そうしたら、僕はきっとお前を離さなかった。
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2007.12.07
45話に寄せて。
最終話との矛盾点はここでは見て見ぬ振りでお願いします。(…。)
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