きっとこれは欲というものなのだろうけれど






「光也…」
耳元でそっと呼びかけるが、真っ白なベッドに横たわった身体からは何の反応も返らない。
元より騒がしい場所ではないが、夜の病院はなおいっそうの静けさで仁の不安を煽った。
思わず手のひらで光也の呼吸の有無を確かめた。
ややあって、強張っていた肩から少し力が抜ける。
先ほどまでここにいた、光也の容態を心から案じている人たちは、今はいない。
純粋で綺麗な感情で光也を案じる彼女らと一緒に、意識のない光也も見守ることなどできなかったから、 ずっと光也の側についていると言い張る亜伊子にせめて何か食べさせようと 百合子たちが亜伊子を病室から連れ出したほんの一時の間に、窓からそっと身を滑り込ませたのだ。
仁自身は謹慎中で今も自宅に篭もっていることになっている。
けれど四六時中見張られているわけではなかったし、こっそり屋敷を抜け出すことには慣れていた。


「光也、なぜ僕の邪魔をした?」
答えがないことをわかった上での問いかけは、抑揚なく口から零れ落ちた。
心の奥は、どろどろと黒く濁って醜く淀んだ何かに占められている。
亜伊子や、百合子、さらにはあの金星のマスターですら、 少なくとも光也に向ける想いは真っ直ぐで綺麗なのにと仁は自嘲気味に思う。
あんな綺麗で無償の想いをもつことのできない自分にとって、例外は慶光への献身だけだった。

「僕は、慶光のために死にたかった」
光也をぼんやりと見下ろしながら呟く。
本人が意識のあるときなら、間違いなく殴り飛ばされていただろうなと頭の隅で考えるが、口は言葉を紡ぎ続けた。

「そして慶光への想いを永遠のものとしたかった」
自分の持っている中で唯一きれいだと言える、慶光への何の見返りも求めない想いを。

「けれど僕にとっては永遠など信用に足らないものだ。ただひとつの方法を除いては」
人の心は移ろう。口先だけでの永遠など、何の役にも立ちはしない。自分自身ですら例外でなく。

「だからこの身を贄と捧げたとき初めて、慶光への――感謝という言葉では言い尽くせないこの想いを、 永遠だと証明できるのだと、そう思ってきた」
初めて温もりをくれ、道を示してくれた慶光への想いに殉じる。
それが自分という人間の存在意義なのだと、頑なに信じてきた。

「そのためのこの身の破滅は、抗いがたくも甘美なる誘惑だった。ずっと」


そうして、望ましい形ではなかったにしろ、その機会はやってきた。
慶光の代わりに彼の両親の仇をうち、同時に自らの未来をも閉ざす、そんな機会が。

常保に向けて発砲する直前、怒りと憎しみに視界が赤く染まった気がした。そのまま我を忘れて引鉄に指をかけた。
けれども、指が震えたのは恐らく怒りだけではなかった。
漸く慶光のための生贄となれる。想いを永遠にできる。
願い続けた望みの実現の方法が今正に目の前にあった。
冷静になって考えたとしてもやはり手を出さずにはいられなかっただろう、それはあまりに甘美なる誘惑だった。

「だが、そうはならなかった。お前が、僕の前に立ちふさがった」
常保と仁と両方を庇い、同時に仁の望みを阻んだ。

「多分…お前は、思わず飛び出しただけ、なんだろうな。まったく、お前らしい」
そう言って溜息を吐いた一瞬だけ、口元が苦笑するように綻んだ。

「光也、お前はずっとそうだ。自覚なしに僕をさんざん振り回す」
仁は身を屈めて、光也の頬に手を伸ばした。
青白く透けそうなひどい色をしていたが、それでもそこには確かに血が通い、体温があった。

「今回に至っては、僕の邪魔をし、ずっと抱いてきた甘美な誘惑を退けさせた」
単に今回は、という意味ではない。
慶光への想いに殉じるために贄となりたいという妄執じみた願いは、 強烈な光を前に闇が掻き消えるがごとく、胸のうちからなくなっていた。

「しかも僕から、ただ一つ綺麗なまま残っていたものを奪った」
慶光への感謝と、敬愛は一生消えることはない。けれど殉じることはできそうにない。
もっと強い願いが芽生えていたことに気付いたからだ。

「光也。僕は、お前のために、『生きたい』」
それは決して綺麗な想いではない。
これまで光也からは与えてもらってばかりだったが、それでもなお、捧げるだけで我慢などできようもない。
どれだけ与えてもらおうと、より貪欲に奪い尽くしたくなるだけだ。
奪い尽くしたい。奪い尽くされたい。そのために死ねない。死にたくない。――生きたい。
常保への憎しみと、破滅への誘惑が消えたことで、さらに奥底に潜んでいたものを自覚した。
どろどろと淀み、そのくせ熱く滾るこの感情。紛れもなく、欲と呼ぶべきもの。
こんなものが、見返りを一切求めない綺麗な想いなどであろうはずがなかった。

「だから、お前が逝くなんて絶対に許さない」
頬を寄せ、間近から見詰めても、まだ彼の瞼は開かない。
ひっそりと触れ合わせた唇は少し冷たかった。

「僕を変えた責任を、お前は取るべきだ、光也」
唇を合わせたまま、仁は、感情を雄弁に語る光也の黒い瞳をただひたすらに切望した。



















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2009.01.10

43〜44話に寄せて。
今更ですが(汗)、ふいに書きたくなったので。。。






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