ススキ野原



一面、見渡す限り優しい黄金色に染まったススキ野原。
開けた眼下には山裾と平原が広がる。
ちらほらと混じる尖った屋根がこの風景にアクセントを添えていた。

慶光が一番気に入っていた眺めを、仁は懐かしく見下ろす。
この景色は慶光にとっても、そして自分にとっても宝物のひとつで、だから光也にも見せたかった。
それだけで、特に他意はなかったのだが、
「慶光に会いたい…?仁」
ふいに、不思議な声音で光也が控えめに聞いた。
仁の知らない何かを知っている。そんな響き。
けれどその口調を訝しく思う前に、呼びかけられたことに対して仁は目を見開いた。
久しく感じる、彼の口から出るその音。
呼びかけられて初めて、彼が自分の名前を暫く呼んでいなかったことに気付いた。

暫し呆然とした仁の前で、光也が突然身体を強張らせた。
「あ…っと、その、…ごめん」
「何が?」
「名前…その…呼ばれるの、嫌だったら」
「!」
仁は息を呑んだ。
引き攣るような感覚に襲われた喉に手をやる。

「…なんだ、それは」
低く問うと、光也は困ったように視線を伏せた。
そんな光也の顔を見詰めながら、ゆるゆると昨夜の記憶が脳裏に甦ってきた。

今思えばあのときは結構な熱があった。
ひどく動揺もしていた。
半ば朦朧とした意識の中、焦りと苛立ちを、居合わせた光也にぶつけてしまった。

(僕は、光也に何と言った…?)
思い出したくもないほどの醜態。
さんざんに取り乱して、挙句――
『同じ声で僕を呼ぶな』
そう言ったのではなかったか。
さらに、あろうことか『慶光を僕に返せ』と、そう光也を責めたのだ。



黙り込んだ仁に、光也は慌てて顔をあげた。
「でも名前呼べなかったら不便だし、別の呼び方じゃ駄目かな。 って言ってもオレがいきなり春日とか呼んだらおかしいし… そうだ、例えば亜伊子みたいにオレもキングって呼ぶとか」
必死にフォローしようとする笑顔は、けれどどう見ても取り繕ったとわかるもので。
さすがに自分でも限界を感じたのか光也は仁に背を向け、代わりにさらに声を張り上げた。
「うん、それがいいよな!やっぱりお前に”キング”って何となく合ってるしさ」
「…嫌だ」
「え―――」



光也の驚きの声が、とても近い。
後ろから、細い首と薄い肩を抱き締め、仁は繰り返した。
「嫌だ。”仁”がいい」
「い、嫌だって、お前、こ、こ、こどもかよ」
こんなにどもるほどに動揺しているのに、それでも抱きついた腕を振り払われなかったことに救われる。
一瞬後には、慶光のことで彼が罪悪感を抱いてしまったからではないかと考えて、己の過去の言動に吐き気を覚えたが。

「子供でも何でもいいから。名前で呼んでくれ」
首筋に顔を埋めて乞う。
「…お前に名を呼ばれるの、好きなんだ」
名を呼ぶというのは、相手の存在を認めるということ。
光也に注意を向けられている、それがいつも妙に神経を浮き足立たせることを、呼ぶ本人は気づいていないだろう。

「僕を呼んでくれ、光也」
「よ、用もないのに呼ばねぇよ」
「減るものでなし。呼んでくれてもいいだろう。光也…光也、光也」
先程の空元気は驚きでどこかへ飛んでしまったようだが、今度は臍を曲げてそっぽを向く光也に、 許しを請うように耳元で何度も何度も強請ると、
「あーっ!!もう!仁!お前うるさい!っていうか離れろー!!」
真っ赤になった顔に怒り半分、照れ半分の表情を乗せた光也は漸く仁の名を呼んだ。





それから何度も名を呼ばせながらもしつこく抱きついていると、「いい加減離れろ」と光也に頭をはたかれた。
名残惜しく手を離したとき、ふと感じた淋しさは、振り返った光也を認めた一瞬に体中を駆け巡って別の感情を成した。

後ろでまとめた髪を秋風にふわりと靡かせた光也が、 困った奴、とでも言いたそうに淡く笑った。
その笑顔がまるですすきの中に溶け込みそうに見えた。

嫌な予感、虫の知らせ、そういう類のものだったのかもしれない。
この感情は一体何だと考えて、すぐに思い当たった仁は目を見開いた。
けれど思い当たるよりさらに先に身体が動いていた。時に、頭より身体の方が自分の正直な望みを知っている。

「何?」
戸惑ったような光也の声。
いつの間にか、仁の手は再び光也に伸び、その肩を強く掴んでいた。
消えそうに見えた彼を、行かせまいとするように。

光也と慶光は同じ人間で、今は慶光が眠り、その代わりに光也という人格が前に出てきたのだと思ってきた。
まったくの別人である可能性を示唆していた証拠もつい先程消えたばかりだ。
だが、――今までこんな風に考えたことはなかったが――、もし、そうだとするならば。

待ち望んでいる”慶光”の帰り。
だがそのときには、
「今度は替わりにお前が消えたりするんじゃないのか?」
強張った口を何とか動かした仁に、光也はゆっくりと目を見開いた。
さわさわとススキが揺れる音がやけに大きく聞こえた。








結局、仁の問いに光也は肯定も否定も返さなかった。
もしかしたら彼自身も答えを持っていないのかもしれない。

「なに、言ってんだよ」
浅く笑って、背中を向けただけだった。
その態度に無性に不安を煽られるが、我が身を顧みるとそれ以上の追及ができるはずもなかった。

勝手なものだ。昨晩は”慶光”と”光也”が別人であると思い込んで取り乱し、 光也に謂れのない八つ当たりまでしたくせに。
同一人物であるならば、どちらかは消える。
最初からわかっていたはずのそのことに、今更ひどくうろたえた。

「光也…」
「ん?何だ?仁」
「いや…何でもない」

今ここにいて当たり前のように応えてくれる彼は、いずれ消えてしまうかもしれない。
それも、多分それほど遠くない未来で。



ちくりと、喪失の恐怖が仁の胸に巣食った。










-----------------------
2007.06.10

24話に寄せて。
ススキの数ある花言葉からは「心が通じる」を推したいところ。
とか書いておきながら↑むしろすれ違っていることに気付きました。ガクリ






*** お手数ですがブラウザバックにてお戻りください ***